真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。 | 夢幻界裡の覚醒

夢幻界裡の覚醒

     ~ 僧侶の毒舌ブログ ~
浄土真宗親鸞会 高森顕徹先生に感謝します。

仮の仏土とは、下にありて知るべし。
すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。
ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。
まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。
これを方便化身・化土と名づく。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
これによりて、いま真仏・真土を顕す。
これすなはち真宗の正意なり。
経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。
ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。
          (教行信証真仏土巻【真仮対弁】)



 方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」で知ってもらいたい。
 すでに述べた通り、真実の願・方便の願ともに、
 十方衆生を救済するという弥陀の大慈悲の願いの実現の為に、
 その果報として成就されたもの。
 ゆえに、報仏、報土であると知らされる。
 方便の浄土に往生する因は人それぞれ異なるから、
 往生する浄土もまた人それぞれ異なる。
 これを方便の化身・方便の化土という。
 弥陀の願に「真実」と「方便」とがあることを知らないから、
 如来の広大な御恩徳が分からないのである。
 このようなわけで、真実の仏・真実の浄土を明らかにした。
 これが弥陀の正しい御心である。
 釈尊の経説、龍樹・天親の教え、浄土の祖師方の解釈を、
 仰いで敬い信じなさい。
 心から謹んで受け取りなさい。知ってもらいたい。





宗祖は、『教行信証』において、
「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」に
「真実の教」を述べてこられたその最後に、
次に示される「化巻」すなわち「方便の教」と、
「真実の教」とを対弁せられたのがこの【真仮対弁】である。




宗祖は、「真」と「仮」の区別を徹底して鮮明にせられたお方。

そして、

「仮」にとどまり、惑うてはならないぞ、
「真」こそが弥陀の真意である、

と懇ろに教えてくだされている。



ところが、

現代の真宗門徒に、これを誤解している者が多い。



すなわち、ここで


 「仮を誡められている」


 「これから説く化巻の方便の行信は無関係だから

  意識して捨てなさいということ」


という具体である。




「仮(弥陀の方便)」を戒めるとはどういう意味かが問題。


宗祖は「仮」そのものを、あたかも危険物かの如く
「はじめから近寄るな」と戒められたお言葉はどこにも無い。

「仮」は必要不可欠のものであり、
宗祖御自身も「仮」から「真」に入られたお方。

宗祖は、「仮」に関わるなと言われているのではない。

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、

 難思往生を願ふべし。

と、仮を勧めておられる御言葉からも明らかである。

宗祖は飽くまでも、

「仮に”留まる”こと」を懇ろに繰り返し戒められているのである。





「仮が無関係」「意識して捨てることができる」

などは無知の骨頂。
弥陀のお計らいを、どうして愚かな人間の智恵で捨てられようか。






教行信証に「真実の教え(真)→方便の教え(仮)」
という次第で書かれているからといって、
だからその逆の「仮→真」という領解が
屈折している・断章取義だ、などというその青臭い迷見こそ
真宗界伝統の教義さえ知らない、とても屈折した断章取義である。




「真→仮」の次第で書かれているからといって、
「方便」を通らず初めから「真実」を知れるように思い、
「真実」を知ったつもりの安楽イスにドッカリ座って
「方便」を見下ろしているつもりなのである。




それでは到底、如来広大の恩徳を知ることはない。


宗祖は、「仮」から「真」に入られて「真仮」を知られ、
そして広大な恩徳に感泣されたのである。



すなわち、


善知識方の教えに巡り遇われ、
善知識方の教えにしたがわれ、
弥陀の方便・仮の願に導かれて、


 19願→20願→18願

   仮→真


と誘われ、自力の信心を翻して選択の願海に転入されて、
「真」と「仮」とを弥陀の願力によって対弁された。

仮から真に入られ、はじめて「真仮」を知られた宗祖は、

偉大な恩徳讃を体得せられている。



 「仮」はみな私を「真」へ誘うものであった。
 これ「すべて弥陀の御恩」

と味わわれている宗祖と、

「方便は通る必要がない」などと見下している者とは似ても似つかぬ。


隔絶していることは猿でも判る。



宗祖だけでなく、すべての人を真実に導く仮の願なればこそ、

宗祖は化土巻に仮の願を見下ろされずに「悲願」と頂かれ、

明記されているのである。



「真実の山からは「仮」の山の頂上は見えるが、
 仮の山からは真実の山は見えないのである。」


などと、もっともらしく真宗を語り、

真実知ったつもりで方便を見下ろし、
「従仮入真」を説く親鸞会の方々を非難している本人が、

「方便」を通らずして語っている「真実」や「方便」など、
観念上の妄念であり、

真実でもなければ方便でもないから
真仮を知らず、如来広大の恩徳を迷失し、


”実に簡単な教え” ”獲信しても知らされることは僅か”


と無信仰を平気で晒している、その自覚さえもないだけである。




不思議の仏智、信楽を知らず。


「机上の空論」「人智観念のお遊戯」に尽きる。





宗祖は「真」から「仮」を見下ろさせる為に
「真→仮」の次第で書かれたのではない。


「真仮」の「弥陀の広大な恩徳」を知ってもらいたい


これより外はないのである。







根本の他力の信心が抜けていて、

頭だけで済ませたつもりの合点信仰どまりの者には、

恩徳讃もないし、非難も”まとも”ではない。



「方便を”通らなければ”真実へは至れない」という親鸞会の説示を、


「方便を”知らなければ”真実へ至れない」と捏造して非難している。


親鸞会のお話しで、

「方便を知らなければ真実へ至れない」などと聞いたことがない。




ありもしない非難は天に唾を吐く愚かな所業。



親鸞会では常に、


「真実を知らされてはじめて、真実も方便も同時に知らされる」


としか説かれていない。


「真実を知らせる為のものが方便」と言われているのである。



これは真宗伝統の教えであることはすでに述べてきた通り。


これを珍説と言う者が珍説の主である。






それにしても親鸞会を非難しているものに、高尚なものが一つもない。


いまどき、親鸞会を相手に非難する元気があるならば、

もっと正確に、親鸞会の説示を把握してからにしなければ、

非難していないに等しいのであるから、無駄な苦労である。



いつの時代でも、善知識には非難がつきもの。

高森顕徹先生に、数多くの非難があるのは当然であろう。

それらを受けられても逞しく、そして淡々と、

着実に浄土真宗の再興を遂げていかれる輝かしい恩徳讃のお姿から、

宗祖や蓮師を偲ばれるお気持ちがひしひしと伝わってくる。

高森顕徹先生にお遇いできてよかった。

親鸞会に遇うことができて本当によかった。

今は高森顕徹先生から直接聞かせて頂けないのが本当に悲しいが、

御本を読ませて頂き、御恩を偲ばせて頂こう。

親鸞会でつとめられる宗祖親鸞聖人750回忌法要にはなんとかお参りしたい。


   南無阿弥陀仏

   南無阿弥陀仏








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