身近な死を体験すると | 母体武道 合気道 無元塾

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成田伝合気道で唱えられた母体武道をさらに洗練させて、武道のみならず、セラピー、ボディワーク、普段の立ち居振る舞いなどの根元となる普遍的なものをお伝えしております。

改めて身近な人が亡くなると、

いろいろなことを思い巡らせます。


もし自分という存在、認識が独立したものという錯覚ではなく、自分以外の直接的、間接的な複雑な関係性の中で浮き上がってくるホログラムのようなものだとしたら、


全てが自分にとってとても重要な構成要素なのですから、


近しい人ほど、その存在が消えてしまった時の喪失感は大きいのです。


そういうことを考えていくと、すべての人がその人なりの背景を有していて、


そして、その背景があるからこそのその人だということが想像することができるのであれば、


すべての人に対して優しくなることが出来るはずなのです。


もしある人が表面的なことで、人を評価し、比較し、区別するのであれば、その人はおそらく、その人の背景を思いやる想像力が足らない人なのだということです。


その人の見た目や、風評、立ち居振る舞いでさえも、それだけにとどまらずその人の家族や考え方など、その人の立場になって考え、想いを馳せ理解することが出来たとしたら、なんらかの傲慢さや、劣情など起こるはずもなく、


イジメから戦争に至るまでの事柄すべて、ただただ想像する能力が欠落していることが原因なのだと思わざるを得ないのです。


ちょっと話がそれましまいましたが、


そういう想像力を発動しなくても、親や兄弟や家族などは、激しい度合いでその人たちを意識して愛している分、当然ながら、より関係性の遠い人達よりも、区別して、不平等に認識していて、


つまり、そういう人達が亡くなった場合、その関係性から浮き上がる私というホログラムが変形する程に、影響を受けるのです。


おそらく悟った人ほど、それらのすべての関係性をより均一的に観ていて、森羅万象に対して、まさに平等に愛とか慈悲とかというフィルターを通して認識しているのだと思うのです。


しかし、凡人の我々は、近しい人の死ほど区別してダメージを受け、その大きさが愛情に比例するのだと思い込み、自らを納得させるのです。


近しい人が亡くなり、その周りにいた人達の意識も変わっていく、、そうして世代が変わっていくのだと思います。


確かに現代の医学的には最善を尽くしたような形ではあるのですが、


手術の後に意識も朦朧としている状態でかつ全身に管を通された状態が長期間続き、ちゃんとコミュニケーションもできないまま、訳もわからず意識がなくなり死んでいくより、


自らの死を察知して、思いが残らないように近しい人に大切に思うことをちゃんと伝えるタイミングを持てるような、何というか、そういう意識的で、より自然な死に方のほうが、本人にとっては良かっただろうなと勝手に思ってます。



土曜の稽古をキャンセルせざるを得なかなった方々にお詫びいたします。


日曜はいつも通りですので、よろしくお願いいたします。



m(__)m