多少ウケ狙いの意図があったとしても、ここまでこの種の一貫したものを継続的に表現し続けるのはなかなか難しいのでないかとも思えるのです。
これ合気道を習っていて、またはお伝えしても同じことが言えるのです。
先生による技のデモンストレーションの後、それを傚って、その生徒たちが見様見真似で同じ技をやったとしても、
全く同じ形の技を再現できる人は誰一人としていないのです。
おそらく技の質に、その人の生まれながらの感性、今まで生きて積み上げてきた価値観、その人なりの考え方が影響して、誰がなんと言おうと全く同じ形など出来るはずがないということです。
では、何をもって型稽古なのか、、という問いにぶち当たるのです。
その答えは、雑にいうと、形ではなく本質を稽古すること、、になるのですが、、ではその本質とは、という新たな問いが生まれるのです。
そういう中で、型稽古において、先生と全く同じ技を伝承という名のもとに、一寸一部違わないことを求める人がいるとすると相当に厳しく、難しいとことになると思うのです。
それよりも、そういうことを受け入れて、認めることで、その習う人の感性や、生きてきた人生も含めて全てを尊重することが重要なことなのだと思わざるを得ないのです。
よく武道では守破離という言葉を聞くのですが、ここで話していることは、つまり、"守"の段階で見た目で、すでに"破"や"離"のような人がいるというか、厳密にいうと、そういう人の方が圧倒的に多いのではないか、、という話です。
そんなことを考えているところへ、たまたま、とある人と話をした中に、
"斜様斜形の似たる弟子を持つ人は人の師たる資質のない人である"
という言葉があるということを知ったのです。
とある弓道師範の言葉だそうです。
いろいろ考えました。なかなか難しい意味だなとも、思いました。
私自身弓道はやったことがないのですが、
弓道のアニメの「つるね」を見ていても、型というより見た目はシンプルな射法そのものだからです。
なんとなく想像なのですが、その斜様斜形とは、射様射形なのではないのかということ、
動作の様、射った矢の質のようなものも含めての言葉のような感じに思えるのです。
つまりそういうモノマネでは駄目だと言うことなのでしょう。
先生であろうが、弟子であろうが、人が普遍的に共通して持っているハタラキの発現を目指すことによる結果の様、形であり、質なのであるということを理解しての稽古であるというを、
つまり教えるのはシステムなのであるということを先生が理解していないと、
自分自身のモノマネをさせはじめ、弟子に自分を目標に思わせしめるようになってしまうのです。
でも、万人が持つ"ソレ"を学ぶシステムが稽古の本質だとわかってくると、
先生も生徒もお互いが、無意識的な言葉や動作から学びを得るということも少なからずあるということを当然にしてわかってくるのです。
そのシステムを構築し、お伝えすることを理解するからこそ、ここは創造武であり、母体武道なのだということです。
改めて、表題の通り、明日26日(日曜)はお休みとなります。
すいません。
\(^o^)/