外の世界に適応するために、外側に意識を置くことがほぼ日常化していることは当然なことです。さらに現代はインターネットなどの膨大な情報に振り回されて、常に思考を使わなくてはならなくなっているのです。
そんな環境で自分の中の感覚を研ぎ澄ます習慣を身につけるのはなかなか難しいものです。
合気道をはじめとする様々な武道、格闘技なども、相対する敵に対応することで精一杯で、自分の中の感覚なんか、感じている暇はないと考えるのは当たり前です。
でも、そこで敢えて、内部感覚を感じるように稽古をするべきなのだと考えるのです。
きっと、そういう稽古は、他流でもたくさん開発されているのです。
ここ無元塾の中心帰納という切り口は、そういう内部感覚の稽古の一つなのだと思います。
しかし、他の内部感覚の稽古との決定的な違いがあるのです。
それは最終的にはひとつのことしかしていないく、また瞬間的なのだということです。
そして、内部感覚をずっと感じ続けることが重要なのではない、という考え方なのです。
少なくとも、僕はそう解釈しています。
それはどういうことなのかというと、
冒頭の話のように、
人は必ず適応するために外側に意識がいくもので、それを、同時に内側へも意識を置くように修正することに意味があるということ。
さらに、瞬間的に内部感覚を感じ、その瞬間を出来るだけ連続的に行うのです。
そういうことを学び、理解する必要があるのです。
これはまさに、"道"の考え方そのもので、
それは事あるごとに現れる選択肢に対し、常に優位な選択をしていき、最終的に最良な状態に自分を持っていくという考え方なのではないのです。
最初に正しい自分の在り方(道)を学び、仮に自分の在り方(道)を踏み外したとしても、
自らの内部感覚を頼りに、最初の自分の在り方に戻り、修正していくということで良しとするという考え方なのです。
つまり、修正するというそのこと自体に意味があるのです。
ですから、そのシチュエーションにはこの内部感覚、、この場合はこうする、、、という断片的な内部感覚の寄せ集めではないということなのです。
"道"という大きな枠の考え方のシステムの中の一貫性のある内部感覚を理解、勉強していくのです。
これは場合によっては、自分の成功を導く最良の選択とは違う結果を導く場合もあるのです。
なぜなら自分の在り方にもどることが、必ずしも周りに適応することを導くとは限らないからです。
しかし、本当の意味でこのことを理解すれば、どんな状況でも、自分の中においては、一致して、まとまっていて、幸せな状態であるということになるので、
(逆を言えば、どんなに外側に一致してうまく行っているように見えていたとしても、自分の中が一致していなければ不幸だということです。)
そこを信じて続けることで、自分のコアにある静寂に辿り着けるかもしれません。
そうなってくると、外側がいかに不安な状況でも、それはそれと受け入れて、静かに、客観的にその状態を見続けることができるのです。
場合によっては、外側の方が180度反転して、好転することもゼロではないのです。
つまり外側は、様々な要因、力学が働いていて、我々の思考ではおよびもつかない変化をし続けるもので、
成田先生はそういう外側にとらわれない"思わざる"状態のことをよく説明してらっしゃいました。
そういう考え方を武道的な技の中で表現していくと、まさに合気道的な形が現れるのです。
それは決して、外側にあわせる形でもなく、相対的な強さを表現する形でもないということなのです。
中心帰納、、という内部感覚がスタートとなり、
そしてそれは瞬間的であり、
そして連続的である。
そのプロセスは修正の連続となるのです。