初稽古の日に緊急事態宣言発令って、orz | 母体武道 合気道 無元塾

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この緊急事態宣言のため、期間中は木曜の稽古はなくなります。

日曜は今まで通り続けられそうです。

気を付けながら粛々とやっていきたいと思います。

\(^o^)/ 


さて、初稽古にも来られた生徒さんの中に何名か柳生新陰流をやっておられる方がいらっしゃいます。

その1名から、下記の情報をいただきました。


↓↓↓

新陰流の江戸初期の達人の柳生連也斎の七ヶ条と呼ばれる覚書を、江戸後期の新陰流の達人の長岡房成先生が解説したものですが、まさに中心帰納のことだと思いました。


連也翁七ヶ条

 一、中身之位

 二、空剣  懸遠ハ近ヲ知ル

 三、己截断  敵不攻

 四、ハセノ拍子  後ハ腹ノ面

 五、カラヲ忘ル事

 六、迎之事

 七、独稽古

 

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連也翁七ヶ条解  長岡房成著

一、中身之位

これは 中庸之身にて 偏せず 倚せず 易せざる場なり(倚=よる)。夫れ故 天性自然の位なれば、少しも繕い飾るところなく、至極直くなる場故、やはり本文の 直立る身(すぐにたてるの身・つったったるの身とも)の位の事なり。
然れども直立るの身と云えば、初学誤りて直ぐ立ちさえすれば好しと思い、屈まず、反らず、傾かぬように斗(ばか)りにて、その外は性に悖りて(反して)、細く長く伸びすぎて立ちたり、上づったり、引っ張ったり、屈みたり、脱けたり、緩みたり、また変化自然の勢に悖りて、俯す(前にかがむ)べきところを無理に直ぐに立ちたりする事もある故、中なる身の位と云いて、中庸の身を教えたるなり。
されば立ちたる形も、千変万化の形も、みな性自然の勢にて、口伝書に云う、中庸五箇の身と同じ意なり。

二、空剣  懸遠は近を知る

空剣とは 万の事 皆な 無刀の心にて、構えと云う事も無く、かくして勝たんとする事も無く、また太刀を持って居ても、持たる心無く、たとい構えても、構えたる心無く、何事もそこに心無く、ただ無形にして、敵に因って転化する者而巳(のみ)なり。
されば虚空に雲の生ずるが如く、何も無き所より、敵に因って千変万化の太刀を斫(き)り出す意なり。因って空剣と云う。
[無刀の心活人刀、また予が云う、無形転の意なり]
懸・遠は近を知るとは、敵懸かりて遠き間より浅く打ち懸かる時、我れ近く吾が前を打って勝つ事を心得居る事なり。
これは敵の遠くに引かれて思わず打ちを 向こうに求めれば、手前が脱(ぬ)けて、口があき、大拍子となって必ず機を失す。故に打ちを遠く敵に求めずして近く吾が前を打つ事なり。
近く吾が前を打つ時は、吾が方 全うして敵に引かれず、自ら中正を得て、かえって勝ちを吾が前に取る。また敵近く仕懸かるとも、もとよりそのまま近く打つ事なれば、自ら近々の教えにも通るなり。この教えは、昔より相伝の口伝に有るところにて、そのまま近く打つ打ちの事なり。
近遠にはかかわらずとも、初学 遠くには引かれ易きゆえ、遠は近を知るといって、近きに勝ちの有る事を示すなり。
また、この段を誤りて直に遠近の教えと見れば違うなり。
遠近の教え、昔は遠に近、近に遠、今は遠に遠、近に近なり。多くは昔を用いず。ここにたとえ昔を用いるとも、遠に近 斗(ばか)りにては、近に遠が一つ闕ける(欠ける)なり。殊に 知る の字がいらぬなり。またこの七ヶ条の大意に貫通せず。因って直に遠近の教えと見ることなかれ。
[初学また誤りて 遠くとも近いと思って油断するな と云う事と見るは大いに拙し。因ってその ことわりは、挙げず。然れどもまた一説有り。別にとく也。]

三、己截断  敵を攻めず

これは己が争闘の情欲を去りて、敵を攻める意無き事なり。皆な勝負となれば情欲起きて、敵を攻める意而巳(のみ)となり、専ら勝ちを敵に求めて、気敵に著き、吾が方 カラとなって、思わず前へ及びかかり、手の内凝り、足つまだち、あるいは危ぶみ、あるいは臆し、みれども見えず、動けども解けずして、前の中身も空剣も失せはてて、何の教えも用に立たず、自ら負けを招くなり。
この如くなる類を、昔より無縄自縛と云いて、務めて省みるところなり。己に克ち天理にかえるに、ほかならず。

四、ハセの拍子  後は腹の面

ハは腹の事、セは背中の事なり。連翁心の持ち所三関の註に、ハは腹、セは背中の帯しと有れば、腹と背中の事 明らけし。
拍子[諸流共に誤り知る]と云うは節の事にて、程よき図の事なり。
打つも受けるも、外すも、止るも 、皆なこの程よき図にかなわねば、勝ちは得られぬなり。故にこの程よきところを腹と背中の間に調え、活々として脈の往来するが如きところなり。
全躰(元来)拍子は、太刀の物打ちに取る事なれども、大刀の物打ちと云えば、早や外に引かれて、内を忘るる故、これを心を存する三関に取りて、自然と太刀へ通るなり。
これ勝負の肝要のところなり。
後は腹の面とは、腹は後の面、後は腹の面、左は右の面、右は左の面にて四方正面の心なり。
されば拍子を内に取りて、前後、左右、惣身(総身)に満ちて、少しもかけたるところ無き意なり。
全躰(元来)勝負は、位い 間積り 拍子 の三つ在る事なるゆえ、初めに中身の位と云い、次に遠は近を知ると云いて、積りの事を云い、また能く己を截断し、敵に勝ちを求めずして、己が腹と背の間に肝要の拍子を取り、少しもかけたるところ無く、四方正面に満ち渡りたるところなり。
これより敵に応じて 越、付、当 の三つも出るなり。
これにて勝負の要は尽くせり。

五、カラを忘る事

これは吾がカラダを忘るる事なり。下に迎の教えを云わんがために まずこのヶ条を挙げたるなり。

六、迎之事

これは昔より伝わるところの本文にて、待つ敵を引き出して勝つことなり。故に迎と云うなり。
ひと口に云えば餌の事なり。
然れども初学餌を出して迎えるとも、敵がそれを打たんとすれば、はや外さんとしたり、受けんとしたり、打たんとしたりして、その謀(はかりごと)あらわれ、手段知れて、かえって害となって負けるなり。
これは畢竟(ひっきょう・要するに)このカラダを危うく思うに因るなり。それゆえ敵を迎えんと思わば、まずこのカラダを忘れねばならぬなり。
その上にて自然の勢に任せて迎えるなり。因って迎の前に、カラを忘るる事をあげて、次に迎をあげたるなり。されば待つ敵に勝つことは迎にて、その迎の為にカラを忘るる事を云いたるなり。
前に云う如く、ハセの拍子にてすでに尽くせるなり。然れども前の四ヶ条はみな 己を全うして、敵の懸かるを待つ意ゆえ、待つ敵に勝つ事が闕ける(欠ける)なり。
因ってこの二ヶ条を別にあげて、待つ敵に勝つ事を教えたるなり。故にカラを忘る事、迎の事と云いて、事の字を付けて分かつなり。
さればこの二ヶ条は、ただ待つ敵に勝つ道具なりと知るべし。実は四ヶ条にて尽くせり。

七、独稽古

これは本文八ヶの意にて、右の六ヶ条を独り稽古にすべしと云う事なり。独稽古と云うは、相手の有る無きによらず己を修めることのみとなるを云うなり。
されば心身ともに中を求め、無形にして、あらわれる所無く、己に克って、節をハセに取り、カラを忘れて、迎を出す。
これ独り稽古して勝負を人に争わざるなり。
この七ヶ条 強いて闘戦之理は云わざれども、皆な能く新陰の意に叶う。
初学常に心を用いば邪道に惑わず、異形に驚かずして、たとえ非常の変に遇うとも、早く本来の霊機にもどらん。
もしまたこれに違いて、いたずらに闘戦之理のみに心を用いば、前に云うごとく情欲におおわれて、自ら失せん。
さてまた日用万事にこの如く心得て、常に中庸[中身の意を取りて経書の中庸]にもとづき、
虚霊[朱注虚霊不昧之意 空剣の意]にしてあらわす所無く、[近きを知る意]
*虚霊不昧:わだかまりが無く霊妙で、鏡のように真実の姿を映し出すこと 
何事も己に克ちて[論語朱注の意 己截断の意] 理を修め、
時に因りて[時中の意] 
宜しきを制すること節に中ならんことを求め[ハセの拍子の意] 
自ら君子の行いならん。
思うべし 道もまた[理の貫通する事]二つ無き者なり。
連翁 闘戦之道の きわまりなく広きところを、この七ヶ条に約めて(つづめて・要約して)示す。
されば博く吟味して、[この技もまた博約の意あるなり、よってまた せばくこれのみと思うことなかれ] また能く約めてこの心を用ゆべし。

此解ヒ、房成任セテ筆ニ述ヘ、不思秘旨言外ニアラハルゝ処有レハ、謾ニ同門ノ人ニテモ他見ヲ不許。
  文政三年庚辰九月十一日

 解連也翁七条目排嶺作二首
 執中空裏剣、因敵撃吾前
 克己脩真性、通身節自然

 敵人厳不動、能撃野狐精
 今我忘腔子、木鶏醸雲迎。
 連翁七条解終

 口伝書云、中庸五箇之身 不偏不倚、無過不及 謂中。庸常。不易也
第一直立身、第二高(かさ)に高(かさ)を懸る事。第三足を臍の下より使ひ土つかずにて踏む事。第四位を放て打込時、筋を不迦さ事。第五打込て猶始のごとく直立事。流水 是は瑞公之御工夫、餘は皆不捨書の意也。相雷刀の心持是也。其処水上無始終云。習ひに通て好し。
  終

   風帆之位 付、下弓腰 腰に力らを取る事也。
   掣電之位 付、不伺也

 右疾雷刀之心持也。二ツ者も亦瑞公(二代尾張藩主徳川光友)御工夫也。帆に風を受て、少しもたるみ緩む処無く、すらすらと浪を蹴て進む処也。掣電は、ひくいいなづまの事也。風帆の位より、ちらちらと三足ついて、先に切り付る勢なり。目をねふる(眠る・まばたく?)ひまも無き也。

  真位上詰
 是蝉翼刀之心持也。是れも亦瑞公引き玉ふ処也。遠々の位なり。後は下の水車也。

  浮足之位 三重五重
 是れ江河勢之心持也。浮足は公之御工夫。三重五重もまた引き玉ふふところ也。浮足は腰に持也。

  立合之位 気をうつす位
 是水車勢之心持也。
 公之御工夫也。吾か虚霊不昧之鏡に敵の争気をうつし、敵の鏡に吾か処女をうつす也。如此虚霊ならざれば水車の道に随て転るが如くはならざる也。水車は無心にして自ら能く応ず。
 右八勢之心持終。皆所秘也。是瑞公御自筆之書に出る也。謹で勿他見。房成謹釈。

   如雲斉偈
截断仏祖吹毛倚天。要身体月照大千。
  終
  初陰流、後新陰流、後柳生流、後有瑞公之命而称御流儀。与下称者異也。

 天保三竜集壬辰仲春穀旦

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古文なので分かりづらいですが、ここの教えを理解していれば、不思議と内容がわかります。

細かく説明はしませんが、表現の仕方が違えど、ここの中心帰納をするための考え方を表している文書だと思います。


しかし、これを読んで疑問が出るかもしれません。

同じならばなぜその剣術の中で、中心帰納を学ばないのか、、ということです。


違いがあるとすると、中心帰納という言葉がないということです。

でも、そのことがとても大きなことなのです。


そして想像なんですが、おそらく、

新陰流の転(まろばし)は、

ここの合気道の"腰回し"と同じ概念なのでは、、とも。


腰回しは中心帰納への理解が蓄積して気づく概念のような気がします。


いずれにしても、"中心帰納"なのです。


\(^o^)/