一、中身之位
二、空剣 懸遠ハ近ヲ知ル
三、己截断 敵不攻
四、ハセノ拍子 後ハ腹ノ面
五、カラヲ忘ル事
六、迎之事
七、独稽古
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連也翁七ヶ条解 長岡房成著
一、中身之位これは 中庸之身にて 偏せず 倚せず 易せざる場なり(倚=よる)。夫れ故 天性自然の位なれば、少しも繕い飾るところなく、至極直くなる場故、やはり本文の 直立る身(すぐにたてるの身・つったったるの身とも)の位の事なり。
然れども直立るの身と云えば、初学誤りて直ぐ立ちさえすれば好しと思い、屈まず、反らず、傾かぬように斗(ばか)りにて、その外は性に悖りて(反して)、細く長く伸びすぎて立ちたり、上づったり、引っ張ったり、屈みたり、脱けたり、緩みたり、また変化自然の勢に悖りて、俯す(前にかがむ)べきところを無理に直ぐに立ちたりする事もある故、中なる身の位と云いて、中庸の身を教えたるなり。
されば立ちたる形も、千変万化の形も、みな性自然の勢にて、口伝書に云う、中庸五箇の身と同じ意なり。
空剣とは 万の事 皆な 無刀の心にて、構えと云う事も無く、かくして勝たんとする事も無く、また太刀を持って居ても、持たる心無く、たとい構えても、構えたる心無く、何事もそこに心無く、ただ無形にして、敵に因って転化する者而巳(のみ)なり。
されば虚空に雲の生ずるが如く、何も無き所より、敵に因って千変万化の太刀を斫(き)り出す意なり。因って空剣と云う。
[無刀の心活人刀、また予が云う、無形転の意なり]
懸・遠は近を知るとは、敵懸かりて遠き間より浅く打ち懸かる時、我れ近く吾が前を打って勝つ事を心得居る事なり。
これは敵の遠くに引かれて思わず打ちを 向こうに求めれば、手前が脱(ぬ)けて、口があき、大拍子となって必ず機を失す。故に打ちを遠く敵に求めずして近く吾が前を打つ事なり。
近く吾が前を打つ時は、吾が方 全うして敵に引かれず、自ら中正を得て、かえって勝ちを吾が前に取る。また敵近く仕懸かるとも、もとよりそのまま近く打つ事なれば、自ら近々の教えにも通るなり。この教えは、昔より相伝の口伝に有るところにて、そのまま近く打つ打ちの事なり。
近遠にはかかわらずとも、初学 遠くには引かれ易きゆえ、遠は近を知るといって、近きに勝ちの有る事を示すなり。
また、この段を誤りて直に遠近の教えと見れば違うなり。
遠近の教え、昔は遠に近、近に遠、今は遠に遠、近に近なり。多くは昔を用いず。ここにたとえ昔を用いるとも、遠に近 斗(ばか)りにては、近に遠が一つ闕ける(欠ける)なり。殊に 知る の字がいらぬなり。またこの七ヶ条の大意に貫通せず。因って直に遠近の教えと見ることなかれ。
[初学また誤りて 遠くとも近いと思って油断するな と云う事と見るは大いに拙し。因ってその ことわりは、挙げず。然れどもまた一説有り。別にとく也。]
これは己が争闘の情欲を去りて、敵を攻める意無き事なり。皆な勝負となれば情欲起きて、敵を攻める意而巳(のみ)となり、専ら勝ちを敵に求めて、気敵に著き、吾が方 カラとなって、思わず前へ及びかかり、手の内凝り、足つまだち、あるいは危ぶみ、あるいは臆し、みれども見えず、動けども解けずして、前の中身も空剣も失せはてて、何の教えも用に立たず、自ら負けを招くなり。
この如くなる類を、昔より無縄自縛と云いて、務めて省みるところなり。己に克ち天理にかえるに、ほかならず。
ハは腹の事、セは背中の事なり。連翁心の持ち所三関の註に、ハは腹、セは背中の帯しと有れば、腹と背中の事 明らけし。
拍子[諸流共に誤り知る]と云うは節の事にて、程よき図の事なり。
打つも受けるも、外すも、止るも 、皆なこの程よき図にかなわねば、勝ちは得られぬなり。故にこの程よきところを腹と背中の間に調え、活々として脈の往来するが如きところなり。
全躰(元来)拍子は、太刀の物打ちに取る事なれども、大刀の物打ちと云えば、早や外に引かれて、内を忘るる故、これを心を存する三関に取りて、自然と太刀へ通るなり。
これ勝負の肝要のところなり。
後は腹の面とは、腹は後の面、後は腹の面、左は右の面、右は左の面にて四方正面の心なり。
されば拍子を内に取りて、前後、左右、惣身(総身)に満ちて、少しもかけたるところ無き意なり。
全躰(元来)勝負は、位い 間積り 拍子 の三つ在る事なるゆえ、初めに中身の位と云い、次に遠は近を知ると云いて、積りの事を云い、また能く己を截断し、敵に勝ちを求めずして、己が腹と背の間に肝要の拍子を取り、少しもかけたるところ無く、四方正面に満ち渡りたるところなり。
これより敵に応じて 越、付、当 の三つも出るなり。
これにて勝負の要は尽くせり。
これは吾がカラダを忘るる事なり。下に迎の教えを云わんがために まずこのヶ条を挙げたるなり。
六、迎之事これは昔より伝わるところの本文にて、待つ敵を引き出して勝つことなり。故に迎と云うなり。
ひと口に云えば餌の事なり。
然れども初学餌を出して迎えるとも、敵がそれを打たんとすれば、はや外さんとしたり、受けんとしたり、打たんとしたりして、その謀(はかりごと)あらわれ、手段知れて、かえって害となって負けるなり。
これは畢竟(ひっきょう・要するに)このカラダを危うく思うに因るなり。それゆえ敵を迎えんと思わば、まずこのカラダを忘れねばならぬなり。
その上にて自然の勢に任せて迎えるなり。因って迎の前に、カラを忘るる事をあげて、次に迎をあげたるなり。されば待つ敵に勝つことは迎にて、その迎の為にカラを忘るる事を云いたるなり。
前に云う如く、ハセの拍子にてすでに尽くせるなり。然れども前の四ヶ条はみな 己を全うして、敵の懸かるを待つ意ゆえ、待つ敵に勝つ事が闕ける(欠ける)なり。
因ってこの二ヶ条を別にあげて、待つ敵に勝つ事を教えたるなり。故にカラを忘る事、迎の事と云いて、事の字を付けて分かつなり。
さればこの二ヶ条は、ただ待つ敵に勝つ道具なりと知るべし。実は四ヶ条にて尽くせり。
これは本文八ヶの意にて、右の六ヶ条を独り稽古にすべしと云う事なり。独稽古と云うは、相手の有る無きによらず己を修めることのみとなるを云うなり。
されば心身ともに中を求め、無形にして、あらわれる所無く、己に克って、節をハセに取り、カラを忘れて、迎を出す。
これ独り稽古して勝負を人に争わざるなり。
この七ヶ条 強いて闘戦之理は云わざれども、皆な能く新陰の意に叶う。
初学常に心を用いば邪道に惑わず、異形に驚かずして、たとえ非常の変に遇うとも、早く本来の霊機にもどらん。
もしまたこれに違いて、いたずらに闘戦之理のみに心を用いば、前に云うごとく情欲におおわれて、自ら失せん。
さてまた日用万事にこの如く心得て、常に中庸[中身の意を取りて経書の中庸]にもとづき、
虚霊[朱注虚霊不昧之意 空剣の意]にしてあらわす所無く、[近きを知る意]
*虚霊不昧:わだかまりが無く霊妙で、鏡のように真実の姿を映し出すこと
何事も己に克ちて[論語朱注の意 己截断の意] 理を修め、
時に因りて[時中の意]
宜しきを制すること節に中ならんことを求め[ハセの拍子の意]
自ら君子の行いならん。
思うべし 道もまた[理の貫通する事]二つ無き者なり。
連翁 闘戦之道の きわまりなく広きところを、この七ヶ条に約めて(つづめて・要約して)示す。
されば博く吟味して、[この技もまた博約の意あるなり、よってまた せばくこれのみと思うことなかれ] また能く約めてこの心を用ゆべし。
此解ヒ、房成任レセテ筆ニ述ヘ、不レ思秘旨言外ニアラハルゝ処有レハ、謾ニ同門ノ人ニテモ他見ヲ不レ許。
文政三年庚辰九月十一日
解二連也翁七条目一排嶺作二首
執レ中空裏剣、因レ敵撃二吾前一。
克レ己脩二真性一、通身節自然
敵人厳不動、能撃二野狐精一。
今我忘二腔子一、木鶏醸レ雲迎。
連翁七条解終
口伝書云、中庸五箇之身 不偏不倚、無過不及 謂中。庸常。不易也
第一直立身、第二高(かさ)に高(かさ)を懸る事。第三足を臍の下より使ひ土つかずにて踏む事。第四位を放て打込時、筋を不レ迦さ事。第五打込て猶始のごとく直立事。流水 是は瑞公之御工夫、餘は皆不捨書の意也。相雷刀の心持是也。其処水上無二始終一云。習ひに通て好し。
終
風帆之位 付、下弓腰 腰に力らを取る事也。
掣電之位 付、不伺也
右疾雷刀之心持也。二ツ者も亦瑞公(二代尾張藩主徳川光友)御工夫也。帆に風を受て、少しもたるみ緩む処無く、すらすらと浪を蹴て進む処也。掣電は、ひくいいなづまの事也。風帆の位より、ちらちらと三足ついて、先に切り付る勢なり。目をねふる(眠る・まばたく?)ひまも無き也。
真位上詰
是蝉翼刀之心持也。是れも亦瑞公引き玉ふ処也。遠々の位なり。後は下の水車也。
浮足之位 三重五重
是れ江河勢之心持也。浮足は公之御工夫。三重五重もまた引き玉ふふところ也。浮足は腰に持也。
立合之位 気をうつす位
是水車勢之心持也。
公之御工夫也。吾か虚霊不昧之鏡に敵の争気をうつし、敵の鏡に吾か処女をうつす也。如レ此虚霊ならざれば水車の道に随て転るが如くはならざる也。水車は無心にして自ら能く応ず。
右八勢之心持終。皆所レ秘也。是瑞公御自筆之書に出る也。謹で勿二他見一。房成謹釈。
如雲斉偈
截断二仏祖一吹毛倚レ天。要レ看レ身体一月照一大千。
終
初陰流、後新陰流、後柳生流、後有二瑞公之命一而称二御流儀一。与二自レ下称者二異也。
天保三竜集壬辰仲春穀旦
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