公共の放送で本気の"殺す"という言葉を聞いたのは、後にも先にもこの人の口から以外記憶にないほどです。
もう20年も前の事件なのに、少年犯罪の話の際は必ずこの人を思い出し出します。
しかし、少年犯罪で最初の死刑の判例となったのは、以前ブログに載せたことのある永山事件だったことを今更ながら知りました。
永山事件が犯罪者側からの話ばかりなのとは違って、上の動画の光市母子殺害事件は被害者側の話がほとんどです。
加害者の少年は自分の欲望を達成するために、首を絞めて殺害し、さらに、横で泣く生後間もない子供をうるさいと、床に叩き付けて殺害した上で、母親の殺害時に漏れ出たふん便を手で拭っての屍姦、、、
その常軌を逸した行動に、犯人に対して、怒りというより、無知な人間に対する恐怖を感じたことを思い出します。
しかし加害者が18歳になったばかりのこともあり、著名な社会派弁護士たちが、少年法を盾に極刑を避けようと活動を展開していきます。
そして最初の判決後に発せられた言葉が、動画の中にある "法的機関が死刑を与えないのならなら、私が自らの手で殺すまでです" 、、
というもの。
殺すという言葉は、当然軽い言葉ではありません。
その言葉を発する時は、相手と差し違えて死ぬことをも覚悟する、相手によっては殺される可能性もあるのです。自分の死をもって責任を取らなければならない行為なのです。
現代の日本では、僕も含め、ほとんどの人は漠然とし
た意味でしか"殺す"という言葉を知りません。
そして、ほんとうに人を殺す人はほとんどいないのです。
人は、どんなに殺意を抱いても、自ら、生理的、本能的に、殺人を食い止めようとするはずなのですが、
加害者の少年はそこを簡単にクリアしてしまう、 歯止めが無いような危うさを感じます。
そういう"殺す"という意味をキチンと教えてもらっていなければならなかったのです。
"殺す"ということに関する感性が緩い分、彼の性格も環境も、ある程度想像できてしまいます。
この少年はこのか弱い若い母親の背景に幸せな家庭とその未来があることを想像する力が欠落していたということです。
そんな当たり前なことが想像できないのだから、情動の勢いで殺害してしまった後、自分の残りの人生がどうなっていくかなど、到底考えることなど出来ないのだろうと思います。
そして、そういう邪(ヨコシマ)な思考が出てきた時には、客観的に自分を観て修正する能力を身につけるということが彼にとっての教育だったのです。
その想像力無さ、感度の鈍さ、修正力の欠如などを
克服するために、自分を含めて人間というものの理解をより深める必要があるのです。
それは決してリスクに対して、闘争心を鼓舞して、より身体的にも、テクニカルにも、強くなるというシステムではなく、
相手を制圧、場合によっては殺すことも可能な技などを学びながら、
つまりは相手と争う環境にいながらにして、沸き起こる負の感情を冷静に観て、受け入れて、自己修正をし、相手と一体となる無対立の理りを学んでいくシステムである合気道がそういうことを訓練する有効なシステムの1つだと本気で思います。
そこで伝える側が、意識していかなければならないことは、
それは稽古の中で、学んでいる人たちが、揮発性の気付きや感動だけを感じる薄っぺらいものではなく、
矛盾に苦しんだ後、訪れるアウフヘーベンを体験してもらえるよう、
矛盾に翻弄されて思考がどこかへ行ってしまわないようにちゃんと説得力のある重石になれるよう、
出来ている出来ていないは別にして、
常にそういうことを考えています。
\(^o^)/