新年から、ふと合気道の型稽古の技で人を殺すことが出来るのか想像してみました。
しかし、無いのです。
殺せる技がないのです。
よくよく考えると、ほとんど制圧する技なのです。
決して誰か人を殺したいということではありません。
^^
もちろん、人を殺したこともありません。
\(^o^)/
武道の発祥は人を殺めることから来ると教わっています。
戦いのかなで効率の良いやり取りをパターン化し、拡張、収斂させていくことで、また創始者の考え方が反映されて、様々な武術、武道が生まれたんだと思います。
受け継ぎ、携わった人達のさらなる考え方でその質はさらに変わっていくのだとも考えます。
当然殺め方も変わってくるのでしょうし、
中には殺さないで、制圧だけして生かそうとするという発想の武道も出てくるのだと思います。
いや、むしろ武道は昇華するとその方向に向かうのではないのかと最近つくづく思うのです。
上級は、制圧するやり取りの前に相手を崩して、相手の戦意すらなくなる状況を作ること。
投げるのは崩した後の、後始末なのだと成田先生はおっしゃってました。
最上級では、"無対立"という考え方を習っていくのです。
合気道とはまさにそういう武道なのであり、
武道の行き着いた最終形の1つが合気道なのではないかとも思うのです。
ところが、そういう無手では殺さない技ではあるのですが、
一旦、剣を持つと、シュミレーションの中では殺すことがたやすく想像出来るのです。
そんなことは当たり前だと言われそうです。
ほとんどの人は、素手の人が武器を持つことで強く有利に展開出来ることを想像すると思います。
でも言いたいことは少し違います。
柔道の人が剣を持つことで、柔道の理合とは違う剣の動きで有利に相手を殺傷するという話ではありません。
あくまでも合気道の制圧する技の延長線上の動きで剣を振ることで成り立つ話をしているのです。
逆に、そういう剣の精度の高い動きが内包しているが故に、その余裕で相手を殺すことなく、制圧することが出来るのではないか、、そういう成り立ちの技なのではないのか、、
つまり剣を想定せずして、合気道の技は完成しないということです。
無対立だけど心には剣を置いておく。
この矛盾を成り立たせてることに意味があるのではないかと考えるのです。
剣を想定しての究極の戦いが殺し合い(試合、死合)だとすると、
不死身であれば試合(死合)をするのが一番効率的な稽古なのでしょう。
でも人間はそういうわけにはいきません。
それを克服するために竹刀と防具が開発されたのでしょうが、それだとやられ慣れしてしまうでしょう。
では、どうすれば最悪のリスクに対応する稽古ができるのでしょうか、、
いま、考えている最良の克服する術(すべ)は、
"想像力"を駆使すること、、です。
それすなわち"想い方"なのです。
それを理解して稽古システムを構築することが一番なのだと思います。
では、何を想像し、どのようにシステムを構築すれば良いのでしょうか、、。
大晦日、那須川天心はメイウェザーと試合をし、ボクシング形式の試合で1ラウンドに3回ダウンされ、TKOとなりました。
この試合で強さの幻想に惑わされている人達は、
やはり5階級制覇のメィウェザーは強く、那須川天心はそれには及ばなかったという評価や、那須川天心に夢を抱いていた人達は落胆したに違いありません。
でも勘違いしてはいけません。
こういう試合はいくつもの前提条件に成り立っているのです。その前提の全てがメィウェザーに有利だったということだと思うのです。
そこをわかって、それでも那須川天心が勝てるかもしれないと期待してマッチメイクした、、
ただ期待通りにならなかった。それだけです。
可哀想なのは、僕の息子より歳が若い
那須川天心です。
意識が飛ぶほどのダウンを3回、将来的なリスクを負うのは本人のみなのです。
絶対思っている以上に脳のダメージが大きいと思います。
そういう経験がない自分でも50の半ばを過ぎての老化が自覚出来るのに、将来的に高い確率で悪影響が出るのではないかと心配です。
それは今回の那須川天心だけではありません。
全てのボクシングをされている方達全員に言えることなのです。
何故そこまでいうのか、
それは、僕自身がクラニオセイクラルという頭蓋骨の調整する療法を学び、そしてそのセラピストだからです。
まさにここのブログの表題に入っているクラニオアイキの名前が入っている所以です。
頭蓋骨がどれほど繊細な場所なのか、、
それをトコトン学ぶのです。
そもそも
そんな繊細なところを殴り合うとは、とても不自然な行動なのです。本来であれば、殴られないような行動パターンを学ばなければならないのに、殴り合うことを前提に殴る競技として成り立たせている。
テレビでそれを見せられて、それが戦いの基本だと洗脳されているのです。
基本人は殴られたくないし、殴りたくもないのです。
そして殴られたくない距離をとる人を殴ることはなかなか難しいのです。
ここの成田伝合気道は、人を殺すことなく、その昇華した技と考え方を学ぶことが出来る素晴らしい武道であると言いたかったわけですが、
さらに少しでも当たれば致命傷になる剣から来るこれらの技の本質が分かれば、
脳にダメージのあるような殴り合いを経験しなくても、ある程度対応できるということも付け加えたいと思います。
それは決して、特別な身体能力や、無数の技を会得するということではなく、
柔軟に対応するための、想像力、想い方であり、
つまり考え方の原理原則を学んでいくということなのです。
さー、今年も懲りずにこのことを主張し続けていきたいと思います。
つまり、武道という最も難しいコミュニケーションの中でも通用する考え方は、人生の中で普遍的なものであるということを。
今年もよろしくお願い申し上げます。
\(^o^)/