サラリーマン合気道 | 母体武道 合気道 無元塾

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成田伝合気道で唱えられた母体武道をさらに洗練させて、武道のみならず、セラピー、ボディワーク、普段の立ち居振る舞いなどの根元となる普遍的なものをお伝えしております。


世の中の就業者の9割弱がサラリーマンと言うデータから見ても、合気道人口のほとんどがサラリーマンであるはずだ。

前々から気になっていたのだが、
「サラリーマン合気道」なる本が随分前から
出版されていることを知っていた。

なんとその内容は、
仕事の仕方が合気道的だというだけで、
著者自身が合気道をやったこともなく、
サラリーマンの処世術、仕事術が書かれていると言う。

その段階で買って読もうという気持ちは失せてしまった。

実際合気道をやっている人はおなじような感じになるのではないか。


書評の情報では、

どうも
脱力とか、相手の力を利用するとか、、
それが合気道的ということらしい。


でも、脱力って、ただ脱力するだけなら押し込まれてしまうし、

相手の力を利用するって言っても、先の脱力がちゃんと出来てないとそんなことは不可能だ。



もう"合気道家"宣言をして2年になるが、


未だにサラリーマン合気道を脱しきれない

そこはかとない鬱憤が、、


いくら合気道が一般名詞といっても、

合気道をダシにしたようなタイトルに

その本を投影の対象としてしまうのだ。



そう、合気道は一般名詞なのだ。

ウィキペディアでは植芝系合気道が、
合気道人口の大半を占め、本流と言うことのようだが、

源流の大東流や、全く大東流の流れを汲まない流派や、競技化した流派、柔道の捨て身を取り入れた流派、蹴りやパンチを取り入れた流派、、


それらを全て引っ括めて、

合気道と言う。



だから、おそらく接っしている合気道の質によって、合気道のイメージは違う。

ある人は、優雅なイメージを持っている人もいれば、違う人は荒々しい技を繰り出す武術のイメージを持つ。

いやもう最左翼と最右翼の合気道は
全くの別の武道になっている。


主流の合気会は戦後急速に拡大した。
組織も大きくなり、ヒエラルキーも形成され、
多くの人数を効率よく教えられるような
稽古システムを確立し、
植芝盛平翁を神格化し、偶像崇拝までしている。

そこの組織にいる限り、
そのヒエラルキーからは抜け出せず、
そのシステム以上の会得はむずかしくなっていく。



そんなことはないという人がいるかもしれない。

確かに
師範によっては、努力して
その轍にハマりきらないように工夫している人もいるかもしれない。いや、きっとそうしているはずだ。

でも、人間とは妙な社会性をもっていて、
そのシステムにいる限り、それを逸脱したり、凌駕することはとても大変で、
保守的であることが、その人の存在を保証するなんていうような感じが出てくる。


また、いやそんなことはないと言われそうだ。


呼吸力というコアな概念があると。


でも、果たしてその植芝盛平先生の呼吸力の
本当のところが伝わっているのか?

人によって、捉え方がかなり違うように思える。




そこで提案だ。


そこの曖昧な呼吸力の部分に、
ここの合気道の中心帰納(腰回し)を
当てはめてはいかがだろうか。


習ってみれば、多分なんの違和感もないだろう。

むしろ、こういうことだっとか、、と

靄が晴れるような感じを体験する。



でも同時に形だけを覚えれば出来るというものでもなく、


身体的なタイミングとパワーとスピードだけで、

解決できないということもわかってくる。


習っている者は、それが出来るようになるための質感を求めるようになる。


そして、

こう思うにようになるに違いない。


呼吸力=中心帰納(腰回し)




これがわかれば、全てが解決する。



成田先生はよく仰られていた。

こっちの方が楽なんです、、、と。


何と比較して楽と言っているかというと、

頭を使って、相手の攻撃を対処する技を使うこと。

実際、多人数相手だと尚更そのことがわかる。



想わざる技が出るまでを目標とする。




これは、別に合気道のプロにならなくても、
お教えて貰えさえすれば、稽古できるし、
会得のプロセスをスタートすることはできる。

逆に、プロの合気道家だとしても習わなければ、会得できない。



もし、僕が「サラリーマン合気道」と言う本をかくなら、そういう大多人数派のサラリーマンをしながら合気道をしている人達のための本をかく。


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