「眠れる女子」
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 眠らないまま夜を越えて、次の日の朝に千尋に電話をかけた。
 「もしもし!?」
 取り乱したように千尋が電話に出た。
 「もしもし、ゆき、元気、大丈夫?もー電源も入ってなかったから心配したよ」
 やっぱり私、電源を入れてなかったんだ。
 でもいつから入れていなかったのだろうと考えて、最後に電源を切った時を思い出した。体育祭の後に父に電話して、留守電だった時だ。不機嫌になって、電源を切ったのだった。
 「ごめんごめん。もう、大丈夫だから」
 「本当に、大丈夫?」
 「うん、すっかり」
 「嘘。声で分かる」
 全てお見通しなんだな、と思った。
 「電話もらってすぐこういう話するのもどうかと思うんだけど、あのメール気にして休んじゃった? それなら、ごめん。謝って済む問題じゃないけど」
 「あのメール?」
 「うん。その、体育祭の後に送ったメール」
 千尋は声を小さくして言った。
 私は思い出した。これが考えても唯一分からなかったこと。千尋の送ったメールとは一体何だったのか。
 「体育祭の後って言うと……」
 「猪俣先輩のこと」
 「猪俣先輩」
 猪俣先輩についてのメールなんて、もらったっけ。
 少し考えると、思い当たることがひとつだけあった。自分の中では夢だと思っていたことだ。
 『猪俣先輩、最低だよ。
  あんなのと付き合わないほういいよ。
 いっつもだったらこんなこと言いたくないんだけど、今回ばっかりはどう見ても確信犯だから言うね。
 猪俣先輩、智理学園の女子と二人っきりでじゃれあいながら歩いてた。それだけならまだしも、その女子、ゆきのマフラー付けてた。間違いない。絶対。たぶん、あげたんだと思う、猪俣先輩。
 もう、最低だよ。やめなよ、あんな男』
 あの日ベッドで読んだメールの文面がよみがえった。
 「えっと、あのー。マフラーの?」恐る恐る訊いてみた。
 「そう、他の高校の女子とって話」
 千尋の語調には、収まり切らない怒りが感じ取れた。だから、内容をそれ以上確かめるまでもなく、自分の思っているメールのことなんだなと思った。
 そう言えば。
 電源を切っている間に受信していた千尋からのメールの中の、体育祭の次の日のメールに、「昨日のメール」とあった。その「メール」と同じものではないかと思った。
 体育祭の日、昼寝の夢の中のメールだと思っていたものは、夢なんかじゃなかった。
 寝ぼけて、勘違いしていただけなんだ。
 まったく。
 自分に呆れた。夢の中のことを現実だと思って、現実を夢だと思っていたわけだ。
 でも、あの日、受信メールの中には、昼寝から起きた後もメールは無かったし、念のため、もう一度確かめてみたが、やはりそのメールは無く、そこだけがおかしい点で、そればっかりは千尋に訊くわけにもいかなかった。
メールはどこに消えたのかわからなかった。
 「あんな男、もう忘れて、どっか一緒に遊びに行こう! 不快だったら削除して、あのメール。ほんっとうにごめんね!」
 削除。
 削除していたのかもしれない。私は。すでに。もうろうとした意識の中で。
 千尋からのあのメールを読んで、すぐに削除したのだと思った。そうしたら、寝起きに確かめるためにメールをチェックしてもそんなメールはあるはずがないことになる。本当に削除したのか真相は分からなかった。しかし、そんなことはもはやどうでも良かった。
 付き合っている事実があったか、なかったかという問題を確かめる以前の問題だった。付き合いたいか、付き合いたくないかという問題だった。もちろん、付き合いたくなどない。
 淡い期待を抱いていた。最後までそれは、大事にしたかった。嘘でも。
 そんなことあるわけないという気持ちが大きい中で、小さなひびからこっそりわき出る水のように、それはあった。
 もしかしたら、付き合っていたのかもしれない。そう思っていた。
 どこまで自分が浅はかなのかつくづく思い知らされた。マフラーをあげて、舞い上がっている自分に何か言ってあげたい気がした。
 「ゆき、今日、学校は?」
 「行かない」
 「そっか……ゆき?」
 「ん?」
 「ごめんね、けしかけるようなこと言って」
 「けしかける?」
 「私が、無理に告白させるようなことゆきに言ったから、あんな最低なやつに告白してしまって」
 「そんなことないよ、自分で、決めたの。そりゃ、千尋の言葉の影響もあってだけど、千尋の言葉で焦ったとかじゃなく、今回のこと以外でも、勇気をもらったの。だから、千尋にはありがとうって言いたい」
 「そう言ってくれると、ありがたい」
 千尋の声は、涙声だった。
 「ゆきはね、きっといい人見つかるよ。でたらめじゃなく」
 「本当?」
 「絶対。大丈夫。」
 その声は、力強かった。
 「ゆき、待ってるよ」その言葉で、電話は切れた。
 待ってるよ、か。
 花瓶に入った柊の枝と、机の上に投げられたままの恭哉が最後に持ってきた柊の枝が目に入った。
 結局恭哉の言っていたことは当たっていたわけだ。猪俣先輩が、女の子をもてあそぶような人だということ。後味の悪い事実だけが、残るばかりだ。
 自分の部屋のドアをノックする音がして、「ゆき、起きてる?」と言う母の声がした。
 私はびっくりして時計を見た。本当だったら、母はもうとっくに出勤しているはずの時間で、実際、出勤しているものだと思っていた。
 「起きてるよ?」
 その声を聞いて、母はドアをおそるおそる開けた。
 おはよう、といつもと変わらない調子で母は言った。
 「お腹空かない? 昨日の夜から何も食べてないでしょ?」
 私は少しためらったけれど、小さくうなずいた。
 「お母さん、今日仕事は?」先にキッチンに向かう母の背中を追いかけた。
 「休みもらったよ」
 「いいの?」
 「ゆきが休んでるんだから、いいに決まってるでしょ?」母は私の朝食を作るためにキッチンで準備をし始めた。
 私はその言葉を聞いて、罪悪感でいっぱいになった。母が今休んでいる場合ではないことを、世の中の誰よりも私が知っていた。それなのに、私のせいで休ませてしまっているということは、あってはならないことだと思っていた。私は、母の方に身を乗り出す形になった。
 「私なら、大丈夫。もうすっかり元気だし。だからお母さん、仕事行って大丈夫だよ?」
 すると、母はキッチンから私のいる方に回ってきて、私の両肩を軽くつかんだ。
 「お母さんが近くにいたいの。だめ?」
 母の目は、優しかった。とても、とても優しかった。だから、私は泣きそうになった。けれど、ここで泣いたらすごく変だと思ったので、笑ってみせた。
 「いいよ、ありがとう」
 キッチンでは鍋を火にかけていたらしく、鍋がコトコトという音がした。母は、それを思い出し小走りに鍋の方に戻って、火を止めた。
 母が私の前に朝食を出すと、目の前がぱあっと明るくなった気がした。
 「おいしそう」
 「消化が良い物のほうがいいと思ったから」
 真っ白いお粥の上に、オレンジのようなピンクのような色をした焼き鮭のほぐされた身が乗っていた。
 1口お粥をほおばると、口の中に程良い塩気が広がった。前の日の晩から何も食べていないだけなのに、それが久しぶりに食べたものだとさえ感じた。
 幸せ。
 生活が現実と夢が入り組んだ状態になってしまったので、今が現実なのか、夢なのか、それすら疑わしくなっていた。しかし、たとえお粥を口にした一瞬が夢でも、この気持ちは夢ではないと思った。それで十分だと思った。
 「学校は、行きたくなったら行けばいいよ」
 私の前に座った母は、頬杖をつきながら満足そうに私の顔を見た。
 「毎日頑張れるわけじゃないよね」
 私がなぜ学校を休んだとか、そういった話をまだ何もしていないのに、母は全てを知っているような口振りだった。
 「お母さんも、そんな時あるの?」
 「そんなことばっかりよ。お父さんを尊敬する。泣き言一つ言わないから」
 確かに、お父さんの泣き言なんて1度も聞いたこと無い。お父さんは、くじけそうになったこと無いのかな。あったとしたら、どうしているのだろう。お母さんや、他の人に話せているのかな。
 一番弱い時、お父さんのそばには、誰がいるのだろう。
 「お母さんは、どうするの?頑張れない時」
 うーん、と母は首をかしげた。
 「自分ができるって嘘でも思ってみるかな」
 「自分が、できる」私は自分に言い聞かせるように言った。
 「自分ができないことを、神様はお母さんにくれないと思うの。努力し続けた人を、誰も見ていなくても、神様は見てくれているって」
 「神様」
 「お母さんは別にキリスト教でも何でも無いけどね」
 
 気付いたら夕方だった。
 何をするでもなく、ベッドに座って自分の部屋の窓から間違いなく時間が流れるのを見ていた。手には、夢を見る薬の瓶が握られていた。残り2錠を残したまま、私の夢は終わった。当たり前だけど、携帯電話に猪俣先輩からのメールが来ることもなかった。
 私は夢を生きた。
 「人」が見た「夢」なんて「儚い」か。
 言葉遊びをして笑って見せた。かすんだ笑い声が、行き場も無く部屋の中でじんわりと消えた。
 机の上の柊の枝を一本取ってみた。
 誰が、いてくれるの。
 ねえ、誰がいてくれるの。
 そばに。
 柊は、何も言わなかった。
 いたんだよ。
 いっつもいてくれたじゃない、みんな。
 千尋がいた。待っていてくれた。
 母がいた。待っていてくれた。
 みんな待っていたのに、私が見ていないだけだった。
 「自分を見ろよ」
 「あきらめんなよ」
 柊から、聞こえた気がした。
 待っている人は、いる。
 メッセージカードを見て、家を出ていた。
 大黒屋の脇には、ベンチが設置してある。私が着くと、恭哉はそこにいて、今にもクレープを食べようと大きく口を開けているところだった。
 「……よう、もう、元気?」
 恭哉は開けた口をゆっくりと閉じた。
 きれいな薄紅色。持っているクレープは、ストロベリーアンドストロベリーだった。それを見て、恭哉もそのクレープが好きだったことを思い出した。2人で1つ買って、半分こしたこともあった。
 私の胸がきゅっと締め付けられた。
 何も言わない私を見て、恭哉は店の人に、ストロベリーアンドストロベリーをもう1つ頼んだ。恭哉も何も言わなかった。
 クレープができあがると、それを恭哉が私に手渡した。
 私は手を出せずにいた。恭哉は、手をもう一押しした。
 「ほら、今度は間違って落とすなよ」
 あの日の、砂利に混じった薄紅色が頭に広がった。あれがずっと、つかえていた。
 「恭哉」
 「ん?」
 「あれね」
 「あれ?」
 「あれ、ほんとは嬉しかった。ごめんね」語尾が、涙声になって、小さくなった。
 それから涙が止まらなかった。つかえていたものがすっぽり抜けて、流れに流れた。子供のような、大泣きだった。
 「鼻水」
 「うるさい」
 私は顔をぐちゃぐちゃにしながら、クレープにかぶりついた。
 それから二人でブランコに乗りながら、金曜からのことを聞いた。千尋が心配して、藁をもすがるような顔をして恭哉に訊きに来たこと、千尋に、私がふられたことを話したこと。それから、恭哉が金曜の夜から毎夜柊の枝を公園から取ってきた来たこと。
 「ほら、あそこの枝」
 そう言って恭哉は公園の柊の木を指した。恭哉が指した木の枝を見ると、所々不自然に折れた跡があった。
 「やっぱ、柊の葉っぱは触ると痛くてさ」
 「まさか、あそこを折ったの?」
 幼い頃、恭哉が柊の枝を折ろうとしたことを思い出した。
 恭哉は何も言わずにいたずらっぽく笑って見せた。
 「もー。ばか」
 たまらず二人とも笑いだした。
 私は自分のバッグから夢を見る薬の瓶を出していた。
 「恭哉、これね、夢を見る薬なの」
 恭哉はクレープの最後の1口を入れたまま、動きを止めた。
 「私、これ飲んでね、猪俣先輩への告白成功させようとしたの。そしたら、見事失敗。でも、薬のせいで自分が今眠っているのか、起きているのか分かんなくなった。馬鹿だよねー。私その中で猪俣先輩と付き合って、デートして、それを現実だと思っちゃった。現実は、単なる三日間の学校欠席。無遅刻無早退無欠席だったのにね」
 恭哉は何も言わなかった。馬鹿にされても良かった。ただ、私は話しておきたかった。
 すると、恭哉は私の手をいきなり握って、立ち上がった。
 「何!? どうしたの!?」
 「貸して」
 恭哉は薬の瓶の前に手の平を出した。私は反射的に瓶を手渡していた。彼は瓶のふたを開けると、瓶を持っていない手で私の手首をつかむと、そして私のつかんだ方の手の平に瓶を逆さにした。私の手の平には、残りの薬2錠が乗っていた。
 「投げよう」
 「え?」
 「大丈夫、ゆきなら、もう」恭哉は大きくうなずいた。
 私は、頭でうまく整理できていなかったけれど、恭哉の言いたいことは何となく分かった。
 「自分の力で」
 私は精一杯の力で薬を握りしめると、腕を思い切り、振り切った。薬が飛んでいっただろう先に、大きな夕日が出ていた。

 「しかし、ああいう人にはなってみたいよ」帰り道、暗くなった路地を二人で歩いていると、恭哉が言った。
 「ああいう人?」
 「猪俣先輩みたいな人」
 「どうして」
 「なんていうか、勝ち組って言うのかな。思ったことは何でも叶っちゃう人」
 「先輩だって、何でも叶うわけじゃないでしょ」
 「そうだけど、それでも不公平だなって思うことはある。どんなにどんなにどんなに頑張っても、ウサギとカメのウサギみたいに、軽々跳んでっちゃう人」
 私は、昼休みに恭哉がバットを振る姿を思い出したが、それは言わなかった。
 「ウサギとカメの話では、カメが最終的に勝つでしょ」
 「それでも、現実は、ウサギが寝る前にゴール地点があることだって多い。本当の話の中ではさ、ウサギが途中で寝るほどコースは長かったでしょう。現実はそういうことのほうが少ないように感じるんだよね。カメが追いつく頃には、ウサギはゴールしてから寝てる」
 何にも言えなかった。
 「けど、自分は自分だからね。当たり前の、ことだけどさ」
 「カメは、どうすればいいんだろう」
 泣き言ばかり、卑屈ばかりのカメ。
 「猪俣先輩のようにいつも勝っている人がいるから、俺のようないつも負ける奴がいる。でも、じゃあ負けた奴は腐るしかないのかってわけじゃなくて、探さなければならないんだと思う。」
 そこまで言って、恭哉はくすくす笑いだした。
 「格好悪いね、俺」
 「そんなことない」それは私の本音だった。
 「そうかもしれない。あるかもしれない」自分の歩調に合わせて、私はつぶやいた。
 「負けた奴だって、勝利は探したい」
 いつの間にか、二人とも、白んでいる月を見て話していた。お互いに向かって話しているというよりも、自分が話さなければいけない別の何かと話しているみたいだった。
 「あ、俺、こっちだから」恭哉は自分の家に帰る道を指した。
 「あ、私、こっち」
 「じゃ」「うん、じゃ」
 「あ、恭哉!」
 恭哉は自転車をまたごうとしていた体を止めて、こちらを振り返った。
 「ありがとう。現実でも、夢でも」
 それを聞いて、恭哉は意味が分からないと言った顔をしたが、「おう」とだけ言って、自転車で行ってしまった。
 
 私の不眠症はあっけなく治った。というか、治っていたのかもしれない。
 その日の夜はぐっすり眠れることができた。夢を見たのか、覚えていない。寝起きの私の心は乾燥機をかけたようにからっとしていた。だから、もしも夢を見たとしても、それはきっと良い夢だなと思った。
 それから、夢を見る薬の話を聞いた。どうやら、嘘の薬をしかも許可無く販売したとして警察に捕まったらしいという話だった。実際に事務所を見てみると、「三井建築事務所」という看板も無くなっていた。
 なんだ、効果はなかったのか。
 私には、薬に効果がないことが少し残念な気持ちがあった。だとしたら、あの数日間の正夢はなんだったのだろう。単なる偶然だったのだろうか。不思議さだけが残った。
 それでも、まだ自分が夢を見ていることを意識する夢は見た。
 あの薬によって、とはあまり言いたくないし、言ってもいけないのだろうけれど、私には少なからず見なければならないものを見ることができるようになった気がする。
 学校の下駄箱から上靴を取り出して、足を入れた。
 「おう、おはよ」
 その声のほうに顔を上げた。見知った顔だった。
 「なんだ、恭哉か、おはよう」

 私の一日が、始まる。



「眠れる女子」 完





―――――
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