自由とは、どういうことか | 名前のないブログ〜秋田市のどこかで、独り言を綴っているやつ〜

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妻子とハイブリッド婚生活をしていましたが、同居婚に戻りました。
元RIZ◯Pパーソナルトレーナーでしたが、運動能力も見た目もいたってふつうのアラフォーおじさん。現在は高齢者介護のケアマネージャーをしています。
日々、思いついたことを綴っております。

「自由」とは、どういうことだろうか?


時々、考えてしまうことがある。


このことについて、昔、学校の先生が話していたことを未だに記憶している。



先生「皆さんは、自由ってどういうことだと思いますか?自由の国と呼ばれている、アメリカの友人に聞いてみたことがあるんです。

そしたら、自由というのは『自分自身で選択する権利があることだ』と言っていました。~略」



という内容だった。



当時は「ほほぅ。なるほど自分で選択できるってことが、自由ってことか!」と信じてしまいましたが。



よくよく考えたら「自由(フリー)って言ってるのに、選択(チョイス)する権利しか無いじゃないか!」と思うのです。



私も若すぎて、何も考えずに学校の先生が話していることは、全て正しいものだと鵜呑みにしてしまったのです。



では…


「自由」って何でしょう?




【その1:意のままにできることか?】


例えば、自由とは「自分の思い通りに、意のままにできること」でしょうか?



ためしに、想像してみましょうか。



世界の全てが、自分の思い通りです。

天気も思い通り。

他人の行動も思い通り。

建物も、法律も思い通り。

自分の容姿や性別も、生きるも死ぬも思い通り。



だとしたら、どうでしょう?



全てを思い通りにできるとすれば、もはや創造主やら、神さまみたいな存在でしょう。



「うぉー。世界が完全に自分の思い通りって、すごいじゃんか!」




…って、思うだろうか?




つまり、それって「自分が知っていること」しか起きないってことですよね。



あなた自身が知らないことは、想像できないから、創造できない。



すべて、自分が考えたものに囲まれて、自分が考えている通りにしか動かない。



なんつーか、まるで世界中に自分一人しかいないのと同じではないだろうか。



頭の中の妄想でしかない。

夢を見ているのと一緒。



自由だけど、すごく世界が狭い。

こんな自由は、全然快適ではない。


想像していなかったことが起きてくれないと、退屈で死にそうです。



【その2:制度からの解放】

では、身の回りにある法律や社会のルールなどから自分が解放されると自由だと感じるものでしょうか。



例えば、私たちが1つの法律から解放されたとしましょうか。



ためしに、想像してみて下さい。

「明日から、世界中の全ての国や市町村は無くなります。私有地とかも関係ありません。あなたは、どこでも自由に好きなところで生活して下さい」



と言われたら、如何だろうか?

恐らく、「どこでも良いですよ」と言われているのに、明日も今日と同じ家で生活してしまう人は多いのではないだろうか?


結局のところ、慣れた場所、慣れた人たちと一緒にいてしまうのです。


知らない場所、知らない人、知らない環境というのは、何が起こるかわからなくて恐いですから。




他にも…、想像してみましょうか。


「明日から、結婚や家族という制度を廃止します。ですので、一夫多妻や不倫も関係ないですし、特定の妻を作ることもできません。どーぞ、自由にして下さい。」


離婚や不倫をしたがっていた人は、ガッツポーズをするかもしれません。


でも、そうなると家族というものは成り立たないのです。


いま一緒に住んでいる妻や子は、関係のない同居人です。出て行こうが、新しい同居人を連れてこようが関係ないかもしれません。


何より、子どもの親権も監護権も関係なくなるかもしれませんし、遺産相続とかもワケがわからないことになることでしょう。


家族が成り立たないので、妻子を守る義務もない代わりに、自分を守るものもありません。

(入院した場合の身元引受なんかも、どうなるのでしょう)


一夫多妻の国にだって、夫婦や家族のルールがあるのです。


ルールが無いと、困るからルールがある。

当たり前のことだけど、ルールがあることで自分の身を守ることにもなるのです。



続いて

「明日から、全ての憲法も法律も廃止します。犯罪の定義もありません。殺人や泥棒も自由にして下さい」



なんてことになったら、如何でしょう?



極端かもしれないけど、制度から解放されるっていうのはそういうことですよね。



動物がいちいち土地の境界を気にして生活しているわけでもないですもんね。


渡り鳥が航空侵犯で捕まることもない。


ライオンがガゼルを捕食したら、殺獣罪で逮捕されてしまうこともない。



でも、人が複数いると、必ず喧嘩になってしまうのでルールを作る必要が出てくるのです。


ルールが無いと、生きにくいことが生じてしまいまうのです。


私も「何で、日本にはこんな面倒くさい法律があるんだよ」と思うことが、しばしばあります。


他にも、新しい会社に就職すると「え?何その社内ルール?意味わかんないんですけど?」なんてことも、ありますよね。


でも、ヘンテコなルールができてしまうことにも、そこで生活しているみんなが作り上げてきた〝経緯〟があるのです。


時代を重ねれば重ねるほど、人数が多くなればなるほど、複雑でワケのわからないルールが増えてしまうのです。


新しいルールを作るごとに、新しい矛盾が生まれます。


でも、そうしなければ生きにくいからルールを決めてしまうのです。


自由すぎると、生活しにくい。

だから、ルールという不自由を作るのが人間なのです。


つまり、私たちは不自由がないと生きれないというおかしな生物なのだと思うのです。



【その3:物理的な解放】

物理的な自由にも触れてみたいと思います。



試しに、想像してみて下さい。



例えば、私たち人間が、あらゆる引力から解放されて、無重力であれば自由になれるだろうか?



無重力なので、徒歩で歩くということはできなくなります。


無重力なので、上下という概念がなくなりますよね。



そしたら、建物からは「天井」とか「壁」というものが無くなるかもしれませんね。


天井も壁も関係なく、四方六方全てが「床」でしょうか?



でも、歩くことが無いから、やっぱり「壁」と呼ぶのでしょうか?



布団やベッドで寝るということは無く、流されないようにベルトで固定して寝るのでしょうね。

宇宙飛行士みたいに。



果たして、物理的な自由というのは、私たちが望む自由なのでしょうか?



たしかに自由だけども、何かしっくりこない。



歩いていたのに、無重力で歩けない。

料理したいのに、無重力だから加熱しようにもフライパンが使えない。



「できていたこと」が、できないのです。



それは、自由ではなく、もう1つの不自由を作っているのと同じでは無いでしょうか?



人間にとっては、物理的には不自由なほうが、良いのかもしれません。



【その4:自由はない】
物理的に自由になると、新たな不自由が生まれる。

法律などのルールを無くすと、新たな不都合が生まれる。

不都合や不自由だから、ルールをつくる。
でも、ルールができると、不都合や不自由が生まれる。

これって、永遠にループしてしまいます。

自由になるたびに、不自由が生まれ、不自由を作るのです。

もしかすると、最初から自由というのは無いのかもしれません。

【その5:自らに由る】

最終的に、自分なりに自由を定義するとすれば。



日本語の「自由自在」という言葉にこそ、答えが隠されているのだと思うのです。




つまり、言葉の通り「自らの在り方は、自らに由る」ということなのだと思います。




人間が「自由に生きたい」と考えるのは、前提として不自由があるということ。




その不自由な世の中で生きるために、「自在=自分がどう在りたいのか」が明確に決まっていなければならないと思います。



在り方が決まったら、あとは自分がどう生きるか、行動するのかは「自由=自らに由る」ということではなかろうか。




【結論】

「自由」というのは、フリーという意味ではない。


不自由な世の中で、どう生きるのかを自分で決めて、自分で歩むということ。


などと、勝手に決めてしまうことにします。

あくまでも私個人の見解ですのでご容赦下さい。