◇スピリチュアル

 

A『クリシュナムルティがいたとき』(14

メアリー・ジンバリストによる回想

 

高橋ヒロヤス

 

『クリシュナムルティがいたとき』(原書『In The Presence of Krishnamurti』、メアリー・ジンバリスト著)という本の中で、特筆すべき部分を紹介する。

 

この本は、クリシュナムルティ(以下単に「K」ともいう)が70歳のときから91歳で亡くなるまで彼の同伴者として付き添ったメアリー・ジンバリストという女性が、彼女自身の日記を元にインタビューに答える形で詳細に回顧した記録であり、日本語訳も出版されているが、原文(英語)はインターネット(http://inthepresenceofk.org/)でも読める。

 

中身は、メアリー・ジンバリストのつけていた日記を日々説明する形になっているため、日常の瑣事に関する記述(洋服の仕立てとか洗車とか歯医者とか映画とか散歩とか)がかなりの部分を占めている(僕のようなクリシュナムルティ・オタクにとっては、むしろそういう部分が貴重ではある)。

 

この膨大な記録の中から、Kの人となりやKの教えを知る上で興味深い部分を年代順に紹介してみたいというのがこの企画の趣旨である。

 

 

1978年5月30日、ロンドンでKは4時間に及ぶ歯の手術を受けた。4本の歯に歯冠をつけ、2本を抜歯した。Kはその4時間の全部の間、彼の精神は空っぽだったと述べた。

 

メアリーはKのこんな言葉を引用している。

「頭の中に、絶対的に止まっている何かがある。エネルギーのその中心が見つめて、見える。それが起きつつあるとき、身体の残りは静かだ。まるで存在していないかのように。」

 

メアリーはKに、その静寂の中で見たことは記憶されるのかと訊ねた。Kは、「いいえ、それがその肝心な点です」と言い、さらに「エネルギーの中心は記録しないが、(録音)テープは記憶する。しかしエネルギーの中心は、しない」と言った。

 

Kは先日、ラージャゴパルのことについて考え、それが何度も心に戻ってきたときのことについて述べ、自分自身に「なぜこれが起きているのか。記録なし!」と言った。そのときからそれについて考えたことがないと語った。

 

Kはロンドンで歯の治療をしながら理事たちや著名人たちとの対話で過ごし、6月末にスイスに向かった。7月に毎年行われるザーネン講話のためである。

 

ロンドンで会った中に俳優のテレンス・スタンプがいた。彼との交友は1960年代にイタリアで始まり、Kとの交流は詳しくスタンプの自伝の中に述べられている。

 

1967年にフェリーニの映画出演(たぶん『悪魔の首飾り』)でローマにいたとき、スタンプはKの知人が開いた昼食会でKと同席した。後に分かったことだが、Kはフェリーニの撮影途中のフィルムを見て、彼を特別に招待するよう頼んだのだった。

 

スタンプはKが誰なのかをよく知らなかったが、彼との会話に深い感銘を受けた。その後Kの講話に行くようになり、Kから何度か招待を受けた。彼は70年代にインドのラジニーシ・アシュラムで生活したが、後にKから「スーパーマーケットで悟りは見つからないよ」と諭されたという。スタンプがブロックウッド・パークでKについて語った2018年の動画はYoutubeでも見ることができる。

 

https://youtu.be/gdB-OMnjaMc?si=v5IyV_mwXNUypGlE

 

7月のスイスでの講話の間に、Kはメアリーやスコットが登山に行くのをたしなめた。Kは本当に必要ではない場合に親しい人が飛行機に乗ることも賛成しなかった。Kの理屈は、「あなたはもう自分ひとりだけに責任があるのではない」というものだった。同じように、誰もが(K自身も)ザーネンの山でグライダーに乗りたいと思っていたが乗るのは控えていた。

 

この頃、Kの教えを揶揄したり批判したりする動きが流行りのようになっていて、Kの周囲の人々もラジニーシやU.G.クリシュナムルティといった人々の本を読んでいた。メアリーはそれについて不快に思い、そうした人々と口論することもあったと日記に書かれている。

 

またメアリーは周囲で流行っていた「ヨーガ」についても批判的で、それに没頭したり、他人に指導したりするのはヨーガのナルシシズムだと感じていた。Kは今ではヨーガは器械体操のようなものだと言い、「私はそれを破壊しようとしている」と言った。一方K自身は若いころから健康のために毎朝ヨーガを行っていたことが知られている。それは純粋に肉体の機能改善の為であった。

 

ラジニーシは1987年に亡くなるまでKについて語り続けた。Kはラジニーシについて公に言及することはなかったが、側近たちとの会合ではこのようなグル(導師)を「悪魔、本当の危険」と呼んでいる。

 

ラジニーシの側近が書いた本(ヒュー・ミルン『堕ちたグル』)の中で、ラジニーシの元を離れてKと面談した元信者に対して、Kは率直にこう語っている。

 

「私は世界中から、なぜこの男に反対する発言を公にしないのか、という問い合わせの手紙を何千通も受け取っています。それでも私にはそのつもりはありません。それは私の流儀ではないからです。」

 

「この男は犯罪者です。あなたはこのことをはっきりと理解しなくてはなりません。彼が霊性の名のもとに人々に行っていることは犯罪なのです。人はけっしてだれか他の人間―彼は普通の人間に過ぎません―に、意識の究極の顕現である意思決定の権利を委ねてはなりません。あなたは十二年間にわたって、彼にそのような力を与えるという大変な間違いを犯してきました。しかし、このことを理解してください。すなわち、自分の信奉者から与えられる力の他に彼には力などない、ということです。だからこそ彼はいつも自分のまわりに人々を必要とするのであり、大勢であればあるほど彼にとっては好都合なのです」

 

1985年にラジニーシがアメリカのオレゴンでコミューン形成を企てて逮捕されたとき、ある知人がKにこのニュースについて質問しようとすると、Kは「それらの言葉を言わないでください。それらは悪を引き寄せます。ただ哀れな奴だと言って、先に進みなさい」と答えたという。

 

他の国ではどうか知らないが、日本ではクリシュナムルティとラジニーシはほぼ同時期に知られるようになったため、彼らを同列に考えている人もいると思う。しかしKがラジニーシにこれほど厳しい見解を持っていたのは、Kがグルというものの存在を全否定していたことを考えれば特に意外なことではない。ただし、Kは公開の場では決して彼を名指しで非難することはなかった。それはラジニーシに限らず、他の特定個人についても同じである。

 

U.G.クリシュナルムティ(1918-2007)という人物については日本では殆ど知られていないが、Kの教えの影響を受けつつもKを批判し、再解釈しようとした哲学者として、世界に一定数の信奉者を持っていた。彼はなぜか毎年Kのザーネン集会の時期に合わせて同地に来て、聴衆を集めて、Kへの批判を繰り返していた。Kとの直接の面識はなかったと思われるし、Kの彼についての言及もないが、いちどKは車の中から彼の姿を見て「何か不潔なものを感じる」とメアリーに言ったという。

 

1978年8月、アメリカのK財団から、オーク・クローブの学校の運営のために毎年100万ドルが必要だという手紙が来た。英国のブロックウッド学校は何とか軌道に乗っていたが、オーハイのオーク・グローヴ学校を続けるべきかどうかは大きな問題であった。

 

8月19日、Kはメアリーに、「私は何をしているんだろうか。私は誰か話しかける人、私の中から何かを掘り出すことのできる人が必要だ。まだまだ多くのものが取り出されるべきで、このことについて議論できる誰かが必要だ。ここにいる人々はみな子供で、それができない」と語った。

 

メアリーは「これまでには誰がいたのでしょうか」と訊ねた。

 

Kは「誰もいない。(1963年に亡くなった)オルダス・ハクスレーは育ちがキリスト教徒だった。それから彼は仏教やヴェーダンタなどの方に行ってしまった。彼はできなかった」と答えた。

 

「他には誰が?」とメアリーが訊くと、

 

「ラージャゴパルはこのための頭脳を持っていなかった」といって肩をすくめた。

 

「インド人は議論をするが、時々私から何かをでっち上げる。アチュット(・パトルワーダン)はこれに入ったことがあるが、あまりに年老いている。」

 

「おそらく私は行ってしまうだろう。このすべてを遺しておく。あなた(メアリー)はこれについて気を揉んではいけない。さもないと、私はあなたに話ができない」

 

9月と10月にはイギリスのブロックウッドで公開講話をする一方で『学校への手紙』を口述した。その数は二十を超え、Kはメアリーに「私たちはよく働く」と言った。

 

メアリーは日記にこう書いた。

 

「彼は自分自身に挑戦する道を見つけたようだ。彼がともに議論し挑戦できる人は誰もいない。だから彼は自分自身に挑戦しているのだ。」

 

つづく

 

(MUGA第152号掲載)

 


★無我表現研究会発行・無料メルマガ「MUGA」登録・解除フォーム(毎月15日配信)↓
http://mugaken.jp/touroku.html

★無我表現研究会HP
http://mugaken.jp/index.html