◇編集会議 2024  1/9 四谷の事務所にて

 

「不生で一切が整う」ためには

 

那=那智タケシ(無我研代表・作家)

高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)

土=土橋数子(ライター)

 

●誰もが生まれつき持っている「不生」

 

 那 最近の発見と言えば、盤珪禅師の本を読んだんですね。不生禅の。

 高 うん。

 那 電子書籍(『不生の仏心 盤珪禅師の法話に学ぶ 今宿 葦著』)をたまたま読んだんですよ、安いから。そしたら、ああ、これは・・・俺、初めてくらい禅の人で心から共感できたんですよね。

 高 ふーん。

 那 不生で一切が整う、と。「不生」というのは、「不生不滅」の「不生」ね。ただ、「不滅」という言葉さえいらない、と。

 土 うん。

 那 何でかって言ったら、「生まれてもないんだから、滅するわけもない」と言うわけ。

 高 うん。

 那 それは生まれつき誰もが親から受け継いで持っている、と。不生不滅のものを。でも、いろんな念とか生んじゃうでしょ? あるいは常識? 大人っていうのはこういう悪いことしてもいいんだぞ、みたいな。結局、条件付けですよね。観念。そういうのを生んだり浴びたりすることで不生のものをみんな忘れていっちゃって、悪い方に行っちゃうんだ、と。

 土 うん。

 那 それで、当時の民衆とのやり取りが残っているんですよ。「僕、生まれつき短気ですぐに怒っちゃうんですが、どうすればいいですか?」とか。そしたら「短気をここに出してみなさい」と。「出せないでしょ? それは生まれつきじゃなくてあなたが勝手に生んじゃったもので、親から受け継いだ不生不滅のものではないんだ」とか。

 土 うん。

 那 あるいは、商売のことで甥とずっと訴訟しているとか。現代人の悩みとまったく同じなんですよ。それで「甥の顔を見たくもない、とか思っていたけど、盤珪禅師の話を聞いてからいかに私が不生の仏心から離れていたかわかった」と。それで甥の元に頭を下げに謝りに行ったら、甥の方も「私の方から謝りに行かなければいけなかったのに」とか言って泣いて謝って、全部訴訟を止めよう、とか。そういう話とか、当時のことが具体的に残っているんです。

 土 うん。

 那 昔の人は素朴なところもあるから、「不生の仏心」の話を聞いたらはっと気づくことがあって、すぐに改めたりする。あるいは、「幼い息子を亡くして毎日泣いています。もう生きていけないです」と言う人がいたら、「それは子供に対しての悪です」と。

 土 うん。

 那 「子供は不生の仏心を持っていて、すでに救われているのに、あなたはそれを知らずに嘆いている。あなたがこうして仏縁を持ったのはお子さんのおかげでしょ? それをあなたは悲しい悲しいと言って、曇った目で見ようとしない。お子さんは悲しんでいますよ」みたいな。そしたら「わかりました、私は子供に対してとんでもないことをしていました」とか感謝して、救われる。そういう具体的な話がいっぱいある。

 土 それ、電子書籍なんですか?

 那 うん。その現代語訳だけでも読んでいるとすごい面白くて。禅師なのに坐禅もいらない、公案もいらない、と。ただ、自分の悟りを証明してくれる人がいるかと言ったら、どの禅寺に行ってもいないんですよ。江戸時代の初期だと。みんな理屈ばっかりで、不生の仏心とか言ってもわからない、と。経典は読める、坐禅はできる、でも悟りはわからない、と。江戸時代の初期で、既に禅の系譜が途絶えていたんです。

 土 江戸時代、そういうイメージないですものね?

 那 そうなんです。葬式仏教になっている。今と同じで形式化しているんです。みんな真面目に坐禅したりして修行しているけれど、誰も自分のことをわかってくれなかった、と。盤珪さんというのは正式にお寺で修行した人ではないから、自分独りで坐禅とか苦行して死にかけて、黒く固まった血の痰がぽろりと出た時に、突然「不生で一切が整う」と気づいた、とか。

 土 ふーん。

 那 「最初から整ってた。何でこんなことしてたんだ」みたいな。

 土 うん。

 那 それで、仏陀とかクリシュナムルティなんかと言っていることは同じなんですけど、「こんな苦行とかする必要ないんだよ、俺の話聞けば不生で整うんだから」と言うんですよ(笑)

 土 (笑)

 那 それで、当時の人は素朴だから、「俺、何て自己中だったんだ」とか気づいて、「改めました」とか。でも、「私の話を10聞いた人は10、1聞いた人は1、2聞いた人は2の功徳があるから、それに近づいているから、難解なお経とか、厳しい修行なんかいらないから」みたいな。悟りか、悟りじゃないか、じゃなくて、近づいているか、みたいな。優しいんですよ。一般の人に自分の言葉で語りかけて。

 土 ふーん。

 

●直接「観る」ことと「方法」の対立

 

 那 でも、彼の境地を証明する人がいないと当時は人に教えるのが難しかった。それで、当時、日本には超元という中国から来た道者がいたんですよね。それで会いに行って話していたら、最初はなかなか噛み合わなかったけれど、「あなたは既に生死を超えている」と認められたんです。つまり、盤珪さんの悟りが証明された。ただ盤珪さんは、相手が帰国しちゃった後に「超元さんはいいところまでいっているけど、惜しい。自分ならもっと引き上げてあげれたのに」とか、自分のことを証明してくれた人に対して言っていたらしいんです。

 土 ふーん。

 那 その後、隠元さんという人が来日するんですよ。隠元豆を伝えた人で、日本黄檗宗の祖となったようなすごい禅僧なんだけど、超元さんはその人と不仲か何かで、中国に帰っちゃうんですね。それで盤珪さんは隠元に会いに行くんだけど、「不生の人ではなかった」と一言残している。だから、誰も日本では彼の境地を理解してくれる人がいなかった。

 土 うん。

 那 それで、盤珪の教えは民衆に自分の言葉で語りかけるもので、人を変えてしまう力はあったんだけど、形式的な方法論がなかったから、禅寺とか修行に行く人にとってはとっかかりがない。クリシュナムルティと一緒で「観ればいいんだから」と言っても、凡人は「観るにはどうすりゃいいんだ。方法を教えてくれ」となる。

 高 うん。

 那 ただ盤珪さんがいた時は彼のパーソナリティあったから、民衆とか僧侶とか、相手によって言葉を変えているんですよ。対機説法で。

 土 うん。

 那 力があるから、伝わったんですよね。でも、彼がいなくなったら、「不生で一切が整うんだ」と言われても「わからない」となって・・・だから臨済宗から白隠が出てきて、「公案とか坐禅しなくちゃだめなんだ」と。

 土 ああ……

 那 たとえば坐禅して眠りそうになったら肩を叩くじゃないですか?

 高 うん。

 那 でも、盤珪さんは叩いたら怒ったんですよね。「なんで叩くんだ、そこにいる不生の仏心が寝たいと言っているんだから寝かせりゃいいんだ」と。定型に一切囚われない人だったから、自由にやらせたんだけど、そこに規律とか方法を持ち込んだのが白隠で、「盤珪というのは修行の役に立たないからだめだ」と否定しちゃったんですよ。それで白隠が臨済宗の権威になっちゃって、その後、盤珪は忘れられた。「白隠さんが盤珪ではだめだ」と言っているから、と。当時は民衆には大人気だったらしいけど、仏教界では省みられなくなった。それで白隠を誰も乗り越えられなくて、公案とか坐禅が主流になって今もそのままということなんです。でも、そのやり方で「不生で一切が整う」みたいに行ききった人が出てきたかって言ったら、そこはどうなの?という話なんだけど。

 土 白隠っていいイメージで。絵が上手いとか。

 高 達磨のね。

 那 でも、あの絵はデザインアートで深みがない、と言っている美術家がいて、俺もそう感じるんだよね。深みがない、と言うか、一見、迫力はあるけど、わかりやすい漫画絵なんです。雪舟なんかとは全然違う。

 土 ああ……

 那 隠元さんも、いろんな経典を持ち込んだり、儀式を伝えたり、煎茶の祖で、能書家でもあって、当時の日本ではみんな「ははー」って感じだったと思うけど、盤珪禅師は「不生の人ではなかった」とひとことで評している。縁がなかったと。「先に来た超元さんの方がよかった」とかはっきり言っている。だからすごい直接的な人で、面白い人だけど、彼のパーソナリティがないと伝わらないものがあったのも事実だと思うんです。

 土 ふーん。

 那 それで面白いのが、弟子の中に「わかった」と言うのがいて、でも「おまえ、人に教えちゃだめ」と言うんです。何でかって言うと、「おまえ、俺の真似するだろ」と。「不生で整うんだから」とかオウムみたいに同じことを言っていたら、「教えちゃだめ」と言える人なんです。人に教えるほど身についているか、力量を見抜けたんですね。

 土 うん。

 那 「俺の口にしていることをそのまま口にする奴はわかっていない」と。本当に身についたら自分の言葉になる。個性が出る。我々の言葉で言えば「無我表現的」なんですよね。経典を暗記すればいいというものではない、と。ありがたいお説教をそのまま読んだところで、自分自身が不生の仏心であると気づいていなければ、意味がないし、本当に気づいた人は自分の言葉で話す。だから日本の仏教界からは忘れられているけど、すごい共感できる人だったんです。

 高 盤珪はすごいよね。

 那 何で盤珪を読んだかと言ったら、昔、心身脱落体験をした時に「自我の底蓋が開いた」という感覚があったから、同じような感覚の人いないかなってネットで調べたら、盤珪の名前が出てきたんです。同じ体感の言葉を言っている、と。でも、今、調べたら見つけられないんですよ。それで、アマゾンで調べたら電子書籍で安かったから買ってみたんです。そしたら「不生で整う」というのはいい言葉だな、と思って、自分の理論の中に一つ居場所を持ったというか・・・(自分の理論を語った部分、省略)。最近は暗いニュースが多いですけど、面白かったな、というのはこの本ですかね。いや、多少、こういう話もしないと……(会議は地震や事故などの正月のニュースの話から始まった)

 土 まぁ、そうですね(笑)

 

●江戸時代以前から続く、宗教の腐敗

 

 土 江戸時代後期から、民衆の中に現代に続くスピリチュアルの源流があって、その時代の通俗道徳を谷口雅春が書いたんですよね。夢を叶える象的な。

 高 二宮金次郎的なね。

 土 そうそう、そうです。そういうスピリチュアル。

 高 あとは、アメリカのニューソート。

 土 そう、ニューソートと江戸時代後期の通俗道徳をつなげて、谷口雅春が書いたところから、日本の腐敗が始まったと言っている人がいて。

 高 引き寄せの法則とか。

 土 そうです。

 高 ポジティブシンキングとか。

 那 こういう感じ?(キットカットのチョコの小袋を手に、書かれている文字を読む)「キット、なんとかなる」

 一同 (笑)

 那 いろいろ書いてある。「キット、心が晴れわたる」とか。意外といいことが書いてある。

 土 でも、「きっと」だから使いやすいですよね。

 那 「キット、ぐっと、自分が好きになる」無理やりポジティブに(笑)

 土 江戸時代後期から、そういう意識の流れがあったんだなって。民衆の中に。

 那 でも悩みってね、江戸時代初期から同じなんですよね。

 土 まぁ、そうでしょうね(笑)

 那 現代人の質問なんですよ。「訴訟ばっかりで嫌になっちゃった」とか。「親族との争いで疲れてきちゃった」とか。「それ、君が不生の仏心にいろいろくっつけちゃってるからでしょ」とずばり言ったり。

 高 うん。

 那 でも、今って、スマホとかでどんどん新しい情報とか、観念とか、条件付けの雨が降っているから、もっと自己中でややこしい、いびつな人が増えちゃっているように感じるよね。

 高 (笑)

 那 だから「不生で整う」とか言われても「何だよ」ってなっちゃうから。

 高 うん。

 那 まずはそのいびつなものを観て、剥がして、落としていかないと・・・内観からやらないとどうにもならない。しかも、それが不生の仏心からすると断片に過ぎない、ということを根底から理解しない限りは、ずっと内観し続けて、落とし続けなくちゃいけないという……もっとえらい時代になっているよね。でも、人間は同じですよね。悩みも同じだし。

 高 うん。

 那 それで、江戸時代だからって、禅の神髄をわかっていたとか、坊さんも今みたいな坊さんと違うんだ、とか思っていたら、ほぼ同じだったという……

 高 江戸時代の仏教はむしろ腐敗しているよね。

 土 まぁ、そうですよね。平和なだけに、と言うか……

 高 高野山のさ、ジャニー喜多川の親父は高野山の大僧正じゃない?

 土 うん。

 高 高野山と言ったら、男色の別名だったんだよね、江戸時代は。だから江戸時代には本居宣長とか神道の人は、「仏教は稚児さんとか男色とかで腐敗しているからだめだ」って当時から批判していたんだよね。

 那 まぁ、織田信長の時から、権力とか武力とかいっぱい持っちゃってどうにもならなかったっていうから、腐敗どころではなかったというか……

 土 まぁ、そうですよね。

 那 むしろ、宗教勢力から武力をなくさなくちゃだめだ、と言うので織田信長が延暦寺を焼き討ちしたみたいな側面もあるから。逆に関税とかで民衆を苦しめていた。

 土 その腐敗した仏教の余波がジャニーズに来ていると思ったら……

 高 けっこう根が深いんですよね。

 土 そうですよね。

 那 いいものもあるんだろうけど、やっぱり人間の欲と結び付くとより厄介になる。だからローマカトリックと同じですよ。

 高 そうそう。

 那 権力を持っちゃったから、我欲がその分、強まっちゃう人たちもいるという。宗教って二面性があるからね。もちろん、いいところもあるのだけど……

 

(MUGA第150号)

 

 


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