◇エッセイ 

 

最高度の誇りと最高度の謙虚さ

 

佐々木 弘明

 

 洋の東西を問わず、スピリチュアルな世界(業界?)では、「自我をどう扱うか」に主眼をおき、おおよそ自我の思考と同一化せぬことが提唱されている。日本でも、既成宗教はもちろんのこと、新興宗教でも自我の滅却が説かれ、またスピ業界でもハイヤーセルフ論を持ち出して表面の自我心との区別がなされることが多い。

 

 このような自我に対する取り組みにより、ひたすら謙虚であることを是とする向きもあるが、それは少し違うのではないかと私は思う。謙虚であることは社会における潤滑油となるのは確かだが、謙虚が「卑下」につながってしまっている人も見かける。それが高じて、「卑下慢」となってしまっては、却って自我に縛られる結果になるような気がする。

 

 いかなる形でも自我に縛られると視野が狭まり、己の作り上げた理論や世界観のもとで生きることになる。そこで、大きい自我を少しでも小さくするということを眼目に、謙虚を目指すベクトルも生まれたのであろうが、過ぎたるは猶及ばざるが如し、面白くない結果を生むことも多い。

 

 その点、フランスの哲学者ベルクソンは、興味深いことを言っている。

 

(引用、はじめ)

 

人生において歩みを進めれば進めるほど、わたしはわれわれがあまりにも貧しいものであることに気づく。偉人と呼ばれる人と他の人々との間にほとんど差がなく、もし、特にいわれもなく与えられたものとその時々の状況、あるいはこう言った方がよければ人生の運というものを除外するならば、差はすこしもない。このことは、自分たちのつまらなさを正しく認めることによって、われわれを謙虚さへと引き戻す。

 

(引用、おわり)

 

 ここでベルクソンの言う「偉人」とは、一般に名声のある人物を指している。そういった人たちと市井の人々との差は、環境条件以外に差は少しもないというのが彼の説だが、これは、みな自我を中心とした世界観で生きていることを指すのではないか。そして名声の有無に関わらず、我々はつまらぬ存在だと正しく認めること、それが謙虚に結びつくのだという。これは真宗の「罪悪深重の凡夫」という思想に近いと思われる。これに対して、聖者(超人といっても良い)について彼は次のように述べている。

 

(引用、はじめ)

 

こうして、わたしは、真の超人は神秘思想家(聖女テレサ、十字架のヨハネ等)であるという結論に至った。神秘思想家は、超人類の意思を持っている。自分が俗人よりはるかに高いところにあると感じ、またそう感ずることは正しい。しかし、そうだからといって、すこしも得意になったりはしない。自分自身だけでは価値のないものだということを感ずるからだ。こうして、神秘思想家においては、最高度の誇りと最高度の謙虚さとが結びついている。キリストはそれ以上であった。

 

(引用、おわり、一部表現改変)

 

 上記の中で、「最高度の誇りと最高度の謙虚さ」という部分は、本稿のタイトルにしたのだが、とても面白い表現である。実際に超人たちが「最高度の誇り」を持っていたのかは分からないが、傲慢という意味でなく、自己存在の中核に絶対の自信があったのではないかと推測する。那智編集長のよく言う、「あなた」は「世界それ自体」であり、自我を含めた世界のあらゆる断片より上位にたつものである、という認識にも近いものを感じる。

 

 ネット時代で、老若男女問わず断片にしがみつきがちな昨今こそ、自我中心の世界の貧しさと正面から向き合い、「最高度の誇りと最高度の謙虚さ」を持って生きていく、そんなベクトルがあってもよいのではないか・・・そんなことをつらつら考える今日この頃である。

 

参考

ジャック・シュヴァリエ著・仲澤紀雄訳、1959=1997、『ベルクソンとの対話』みすず書房。

 


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