ラカン雑感

 

高橋ヒロヤス

 

ここ三か月くらいの間、ジークムント・フロイトとフランスの精神分析家ジャック・ラカン関連の本を読み漁っていた。精神分析の創始者フロイトはその名前を知らない人はほとんどいないだろうが、ラカンは誰もが知るというレベルの人物ではない。日本人でジャック・ラカンという名前を聞いたことのあるのは割と教養のある人に限られ、さらにラカンの思想の中身を知っている人となると、フランス現代思想に関心のある人以外には、相当に限定されるだろうと思う。

 

私自身、ラカンの名前は聞いたことはあっても彼の言っていることについてはほとんど何も知らなかった。ミュージシャンの菊地成孔が不安神経症に罹ったときにラカン派の精神分析を受けたという知識や、最近のインタビューで宇多田ヒカルがここ十年くらいラカン派の精神分析(明言はしていないが発言内容からたぶんラカン派に間違いないと思われる)を受けているとカミングアウトして話題になったことなどがあって、私小説めぐりも一段落したようだし、ここらでひとつ、まるで未知の分野でもある精神分析関係の領域を彷徨ってみるか、という気になったのである。

 

これまでは精神分析を避けていたわけではなく、単に興味がなかった。というのも、クリシュナムルティは精神分析を全否定しているからである。クリシュナムルティ(K)は、記憶なしに生きること、過去の条件付けをすべて撤廃して<あるがまま>を凝視することを勧めている。Kによれば、精神分析が分析の対象とするのは自我であり、自我とはすなわち過去の記憶の集積である。しかし過去の記憶をいくら分析しても、そこに出口はない。なぜなら、<見る者は見られるもの>であり、分析者と分析の対象とは同じものだからである。それは自分の足を持ち上げて宙に浮こうとするようなものだ。結局のところ、精神分析は自我を強化するだけで、思考の条件付けを解き放つことはできないというのがKの主張である。

 

しかしラカンを読んでみて、Kの批判はアメリカで盛んになった精神分析については妥当だが、少なくともラカンには当てはまらないような気がした。というのも、ラカンの精神分析はそもそもアメリカ流の<自我分析>のアンチテーゼとして出発したからである。アメリカ流の精神分析は<弱い自我>を<強い自我>によってコントロールすることを目的とする。神経症になるのは自我が弱く社会に適合することができないためだから、ストレスに負けないよう自我を強化する必要があるという発想だ。

 

しかしラカンは、このような発想を<精神分析の堕落>と考え、<フロイトに還れ>と主張した。フロイトはそもそも、人間の自我意識というものに疑問を持つところからスタートし、意識的な自我というものは<無意識>という広大な領域に支配されていると考えた。

 

ラカンはこの考えをさらに推し進め、人間意識の主体という意味での自我というようなものは存在しないと言った。細かい議論は省いて雑駁に言えば、自我というのは他者のイメージにより構成される幻のような存在にすぎず、何ら実体をもたない。だから自我を強化するという発想はそもそもナンセンスである。

 

ラカンはこの考えを基礎にして、人間がいかに自己を認識し、<他者>としての世界を認識するに至るのかを詳細に解き明かした。それは人間の意識と無意識を構造的に捉えるもので、理解が進めば目から鱗が落ちるような感覚が味わえる。ラカンの書物は難解だが、今は良質な解説書がいくつも出ているから、興味のある人は末尾に挙げた参考文献をご自分で読むことをお勧めする。

 

フロイトやラカンの優れたところは、人間の意識構造を一般的に分析するだけではなく、彼ら自身が臨床医として個々の患者に向き合い、その症状の具体的改善に取り組み続けたという点にある。つまり彼らは理論のための理論を作っていたのではなく、それらは実際の治療方法を模索する中で生まれたものだ。

 

一例を挙げれば、彼らが中心に据えた<エディプス・コンプレックス>という理論は、荒唐無稽で社会的常識から逸脱するものとして激しい抵抗を受けた。だが、患者の言葉に耳を傾け、その無意識の根底にあるものを探っていくうちに、彼らはそこに共通する両親をめぐる幼児期の性体験(性的意識)が存在していることに疑いを持ちようがなかった。だからその理論は臨床経験に裏打ちされた確信に基づくものであり、一定の普遍性を持っている。

 

ラカンの精神分析の論点は実に多岐にわたり、ここで論じきることはとても不可能なので、ほんの表面を撫でることすらできないが、フロイトやラカン、とりわけラカンの言うことは、全体として思っていたほどクリシュナムティと離れたものではないという感想を持った。

 

ラカンは、日本の精神分析の父というべき古澤平作に一通の書簡を送り、そこには、「虚構の自我を精神分析の体系の基礎に置く自我心理が欧米の精神分析を誤った方向に導いている。自我が幻想であり無であることの洞察は、仏教の最大の悟りのテーマである。仏教徒であり精神分析家でもある日本の分析家たちには、この私の考えとの親和性が高いのでは…」という趣旨が書かれていたという。

 

いささか牽強付会だが、ラカンの理論と実践は<無我表現>を志向していたといえるのではないか。

 

ここに書いたのは、フロイトやラカンの理論を極度に単純化し、自分流に解釈したことなので、決して「解説」ではない。彼らの本を読んでの個人的感想、要するにあくまでも<雑感>にすぎないことをお断りしておく。理解がもう少し進めば、また書いてみたい。

 

参考文献

フロイト全集(岩波書店)

「フロイト技法論集」(岩崎学術出版社)

「疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ」(片岡一竹、誠信書房)

「ラカン入門」(向井 雅明、ちくま学芸文庫)

「人はみな妄想する―ジャック・ラカンと鑑別診断の思想」(松本卓也、青土社)

「ラカンをたどり直す」(福原泰平、河出書房新社)

 

(MUGA第139号掲載記事)

 

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