◇哲学

 

解読・二十一世紀の諸法無我  第7回 

 

テキスト『二十一世紀の諸法無我 断片と統合――新しき超人たちへの福音』(ナチュラルスピリット) 

 

    那智タケシ

 

2.悟り

 

『悟りとは、自我の破壊の先に現れる世界認識である。』(p.22)

 

 傾向性のある観念、条件付け、プライドといったもので構成された強固な「私」という中核がある限り、人は世界をひとしなみに、トータルに認識することはできない。

 

その中核の枠組みを破壊し、自由になるためには、自分の中に根深く潜んでいるトラウマや、コンプレックスといったネガティブなもののみならず、最も自分を自分たらしめているところの「大事なもの」や、「信じているもの」「愛しているもの」といったポジティブなものさえ相対的な一断片に過ぎないものとして認識する必要がある(後者の認識がより難しいことは言うまでもない)。一切があなた固有のものではなく、世界に存在する一断片であり、その集合体が「我」であったと全実存的に理解した時、世界の中心にある頑なで、特別な自我は破壊される。その先に、「私」それ自体をも一つの断片としてみなすところの世界認識が訪れる。

 

『自我の破壊とは、自我にまとわりつき、一体化した一切の観念の崩壊であり、脱落である。』(p.22)

 

自我の自己中心性と非実体性を見抜き、その中核を破壊すると、「私」という固有の意識を構成している様々な観念、思い込み、信念といったものが自らの主体(身体的な意識)から剥がれ落ち、脱落し、そこから自由になることができる。

 

『観念が脱落した自我は、あなた固有のものであることをやめる。』(p.22)

 

 これまで、「自分のものだ」と信じ込んでいた様々な観念や思い込みが落ちたところの主体である「私」は、もはや特別な「我」ではなく、世界の現象の束の間の結晶体として認識される。

 

『巨大な岩は砕かれた。あなたは、今やどこにでもある、路傍の石ころの一つになった。』(p.22)

 

 今まで、あなたは自分のことを世界の中心にいる、特別な存在であると思い込んでいた。しかし、一切が断片の仮初めの集合体であり、世界の戯れであることを知った時、あなたは世界の真ん中にある巨大な岩ではなく、路傍の石ころの一つとなる。

 

『すなわち、世界だけがあった。』(p.22)

 

 あなたが、「私」という存在の中核を破壊した時、そこにはただ無窮無辺に広がる神秘的な世界の営みだけがある。

 

『あなたは、石ころであり、花であり、風であり、他人の悲しみであり、自分の悲しみである。』(p.22)

 

 「あなた」という存在や、意識が、この世界から無の中に消え去るのではない。眼差しが消え去るのではない。その意識と眼差しは、世界の事物、断片の隅々にまで自由に入り込んでゆくことのできる、非実体的かつ、非主体的なそれとなる。

 

その時、あなたは石ころや、花や、他人の意識や、感情の中にさえ自在に入り込み、それを自分のもののように感じ、生き、愛することさえできるようにもなるだろう。

 

『自我は存在しない。他我だけがある。』(p.23)

 

 これまでは、あなたは「私」という自我の意識を世界の中心に置き、その中心点から世界を見つめ、他人や、自然や、事物の戯れに囲まれた世界を生きてきた。しかし、固有の自我がないということを認識すると、一切は「他性の我」であり、世界の断片の束の間の隆起に過ぎないことを身体的及び実存的感覚でもって知ることになる。

 

『他我とは、世界のひずみであり、起点であり、あなたのことであり、私のことである。』(p.23)

 

 「他性の我」とはすなわち、世界の因果がもたらした現象のすべてである。それは波の結晶であると同時に、ときに愛の行為であり、ときに憎しみであり、ときに絶望であり、ときに病でさえある。そしてまた、ときにあなたであり、あなたの隣で目を伏せている人であり、その足下に咲いている名もなき野花でもあるだろう。それらはいずれも等価な他我であり、美しかろうと醜かろうと、世界の陰陽の束の間の形象化であり、あなたと野花は別々のものではない。

 

『あなたの苦しみは、あなたのものではない。それは世界のひずみである。』(p.23)

 

 一切の現象が「他性の我」の産物であるということは、あなたの中に生じる感情もまた、あなた固有のものではなく、世界の神秘的な因果の働きがもたらした束の間の隆起の現象に過ぎない、ということである。故に、あなたの中に生じ、深く根付いてしまったかのように見える苦しみもまた、世界のひずみの一つに過ぎないのであり、それをこだわりなく受け入れ、徹底的に味わい、為すがままにしておけば、波が引くようにあなたの中から消え去っていく。

 

つまり、苦しみを持続させているものは、苦しみに抵抗し、あるいは執着している「自我」なのであり、自らを他我とみなす認識をもって生きる主体においては、本質的に、永続的で固有の苦しみは存在しない。苦しみは存在しても、それがあなたという枠組みの中に生じた永続的なものではない、ということを知ることによって、人は苦しみから自由になり、救われる。つまり、絶望や、恐怖から自由になる。

 

『自我が他我であるという認識に立った時、あなたは、世界である。』(p.23)

 

 あなたの自我が特別なものではなく、世界の束の間の結晶化の現象であり、一切の本質は我性の我であるということを認識して、その地点から世界と関わるとき、あなたは世界の営みそのものであり、すなわち、あなた=世界である。

 

しかし、ここで注意しなくてはならないことがある。自らが世界それ自体の産物であることと、世界や、宇宙の秘密のすべてを知ることは同義ではない。悟りと言うのは、世界や、他者のすべてを知ることではない(悟ったからすべてわかった、というのは思い上がりであり、増上慢である)。言わば、自我が他我であると知った時、あなたは、あなたによって認識されるのを待っている無限で、神秘的な世界の中に独り、忽然と立っていることを知るのみである。

 

この時、あなたにとって他者や、自然は、世界の計り知れない秘密を開示する可能性を秘めた未知の存在として、目の前に立ち現れてくる、非言語的なトータリティを秘めた何ものかとなっている。

 

ここにおいて、世界は記号的浅薄さから解放され、豊かで、積極的な価値を取り戻す。あなたは思考の領域を越えた神話的な世界の中で、自由で、創造的な主体として、新たな生を歩み出す。

 

(MUGA第136号掲載)

 


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