解読・二十一世紀の諸法無我  第6回 

 

テキスト『二十一世紀の諸法無我 断片と統合――新しき超人たちへの福音』(ナチュラルスピリット) 

 

    那智タケシ

 

「エゴイズムなど、たかが知れている。しかし、エゴを超えた大いなる神への盲信、合一化こそが、人に「正義」という名の殺人兵器を生み出させる。巨悪が忍び寄る現代社会に生きる私たちは、悪の背後に小さなエゴではなく、大いなる神を探す必要がある。」(p.18)

 

 私たちのエゴは、「自分を守りたい」という生物的本能から生まれる。それが自然の領分から大きく逸脱してしまった原因は、資本主義社会による過度の競争や、富の蓄積と経済格差、権力の度合いによる優越感と劣等感といったものに私たち人類が過剰に適応しようとしたことによる。

 

 この個々のエゴを真理と正義を謳って集約させ、人々を服従させ、洗脳し、実際に暴力によって支配しようとするものが、極右的なナショナリズムや、原理主義に陥った宗教やイデオロギー、カルトや陰謀論といった類いのものである。一つの断片に集約されて膨れ上がったエゴは、この現実社会において非人格的で怪物的な力となり、個々の人間の自由と創造性を破壊しようとする。

 

「理想が、人を殺す。現実は、人を苦しめこそすれ、意図的に殺そうとはしない。人が人を殺すのは、美しい一つの断片のためである。」(p.18)

 

 理想というのは思考が生み出した「こうありたい」「こうなりたい」というイメージであり、現実ではない。理想的なイメージを強引に現実の世界に当てはめようとするとき、そこに不調和が生じる。苦しみながらも現実世界で日々調和を試みる個々の働きを抑制し、破壊し、努力の全てを無に帰してしまう。その理想のイメージが理想的なものであればあるほど、スタティックなものであればあるほど。

 

「絶対的平安を謳う者を信用してはならない。境地を語る者を信用してはならない。その平安は、悟りであれなんであれ、固定化されたイメージになる時、人間という存在を限界づける牢獄になる。」(p.18)

 

 「ここに悟りがある」「絶対的な平安がある」「こうすればあなたも私と同じようになれる」といった安易な教え方や、画一的なイメージを提供する教師や団体、観念を信用してはならない。オリジナリティのない、定型句を呪文のように繰り返す教師を信用してはならない。人間とは、それぞれが絶対自由の精神領域を持つ独自な存在であり、固定的なイメージの中で万人が幸福になったり、悟ったりするものではない。それはむしろ、人間の自由と創造性を侵害する暴力の一形態なのである。

 

 最初に平安と幸福のイメージを求めるのではなく、競争社会によって条件づけられた私たち現代人のほとんどは、自らの中の自己中心的に肥大化したエゴを真実を直視することから始めなくてはならない。自分の中にはびこり、一体化したゆがみと不調和を自覚することでこそ、それらを落とし、退け、乗り越えて初めて、新しい精神のあり方に移行していく土台ができるのである。

 

「断片を調和させ、超越的なるものを生み出すこと――これが新しい人間のあり方である。」(p.18)

 

 自らを構成し、固定化して限界付ける様々な断片に気づく、それら断片への執着から自由になり、囚われずに生きることができる。そのとき、あなたを縛りつけていた無数の断片は心身から脱落していく。

 

 脱落した断片は完全に消えてなくなるのではなく、あなたの足下に落下して、調和し、気づけば、あなたが立つべき大地になっている。その大地の上に立ち、新たな、自分らしい価値を創造し、表現していく――これが様々な情報に惑わされず、自由に、主体的に生きる、これからの人間のあり方になっていくだろう。どんな経験より、どんな情報より、あなたという独りの人間の存在は、大きいのである。すなわち、それを超人と言う。

 

「断片の調和的超越という地味な作業を飽くことなく繰り返すことによって、人類の悲劇は減少する。」(p.19)

 

 自分の身に降りかかる無数の断片を受け入れつつも、それらに執着することなく落とし、乗り越え、調和させて、新しい形を生み出すという創造的行為を日々、瞬間、瞬間、繰り返していくことで、エゴイズムや特定のイデオロギーといった断片に囚われて自然や他者を侵害し、破壊する全人類のあり方を少しずつ変革させていくことができる。

 

「自らも世界の断片にすぎない、という真実の認識こそが、あなたを浄化し、世界に復帰させる。なぜなら、あなたはもはやこの世界の一部であり、花や、木や、風や、太陽と等価的な何かになったからである。この時、あなたは自然の事物と友人になり、世界は無限界に拡大する。」(p.19)

 

 「私」という固定的セルフイメージが強烈にあると、人は他者や、自然とぶつかり、不調和で、頑迷な生き物になってしまうものである。しかし、実際の「私」は、この世界の無数の断片の構成物であり、編集された主体であり、自然や、他者と別々のものではない。

 

 自分の中に固定化された信念や、観念、思想、あるいは瞬間、瞬間隆起する感情や、思考の働きを注意深く見つめていると、それが外からの断片によって条件付けられた無個性で、非個人的なものであることに気づくことができるようになる。

 

 根本的に「私」という核など存在しないことを認識した時、人は固定的な自我の枠から自由になり、可変的で、創造的な、世界の結晶的存在としての主体となる。

 

「人間とは本来、限界を持たない精神である。その精神の拡大は、個人から大地へ、大地から自然へ、自然から宇宙へと拡がってやまない。しかし、我々は「私」という牢獄によって条件付けられ、自らを縛りつける。」(p.19)

 

 人はみな、自我という枠組みの中で安定した個体として生きることを望んでいる。「私」という自我を守りつつ、大きなものにするために戦い、傷つけ、傷つけられ、自分自身を頑ななものとし、結果的に小さき、いびつな存在になっていく。しかし、自我という枠組みそれ自体が幻想であることを知った瞬間、その枠組みは破壊され、自由になることができる。

 

「自我が破壊された時、世界が現れ出る。」(p.19)

 

 自分の精神を形作る諸々の条件付けを認識し、それらが自分固有のものではなく、外からやってきた断片であり、自らはその断片の集合体に過ぎないということが認識された時、自我は破壊される。するとあなたの目の前に「世界」が現れ、「世界」こそが、あなたそのものであることに気づく。あなたは、「世界」と戦う「私」ではなく、「世界」それ自体の結晶なのである

 

(MUGA第135号掲載記事)

 

 

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