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この小刀論争は、恋愛目線でみてしまったら女たらしに見えるだろう。

しかし、これはそういった見方をするものではない。

アシタカをもっとよく見てほしい。

 

 

いつも素直で、目の前にいる人を助け、全てを愛し、何もかもがうまくいく方法だけを追い求めている。

これは誰にもらったとか、嘘をついたとかそんな小さいスケールの話ではない。

一緒にいてほしい、約束を守ってほしい、私の気持ちをわかってない。

そういった気持ちというのは、愛ではなく欲望や嫉妬というもの。

仮に、サンに小刀をあげてしまったことをカヤが知ったとしても、カヤはそれを咎めるはずがない。

カヤならきっとこう言うはず。

「兄さまがそれが正しいと思ったのならそれで良かったのでしょう」

 

これが本当に心から想っている人の気持ちというものではないだろうか。

 

カヤからアシタカへ、アシタカからサンへ

この小刀が渡されることから感じ取らなければいけないこと。

それは、「愛の連鎖」というもの。

誰かから想いを差し出されたら、その愛をしっかりと受け止めること。

そして、それをそのままその人に返すだけではなく、心の中にしまって強く生きること。

自分に正直に生き、いつでも素直でいること。

 

 

また、愛に飢える人に出会ったら、もらって心にしまっていた愛を分け与えてあげること。

これが最も大切なことで、この流れから感じ取らなければいけないことではないかと私は想っている。

誰かにしてもらったら、それをまた別の誰かにしてあげる。

同じ相手にそのまま返すのも間違ってはいないが、それはある意味で愛情を受け取っていないことにつながる。

してもらったことを受け取るとはそういうこと。

愛を受け止めるとはそういったことなのだ。

そしてまた、自分から差し出せる時には、愛を分け与えて行けばいいのだ。

そうやって愛の連鎖が生まれるのだ。

アシタカとサンはその後どうなった?

これだけは誰にもわからない。

ただ、愛情というものの本質を知った二人は、どんな状況になっても強く生きていけるだろう。

また、愛を分け与えることも理解しているため、出会う人にも愛を与えていく存在となるに違いない。

 

 

二人が結ばれ、子供ができて育てることも愛を与えること。

離れ離れになって、また新たな旅に出ても愛を与えることをやめないだろう。

私の妄想の中では、アシタカはサンには会いに行くことはないだろうと思っている。

最後に

今回は、アシタカ、カヤ、サンの複雑な関係性を一本の線で結ぶために書きました。

バラバラに考えたり、女性目線で見たりすると偏った見方になってしまいます。

ですが、もっと大きなスケールで見れば、やはり愛のある行動です。

アシタカは常に、「愛のある行動」それだけを貫いています。

形はどうであれ、全てそこには愛情があります。

 

村を守り、村を出て、戦い、説得し、瀕死になり、また戦い、説得を繰り返す。

それらの行動全て、愛を貫くために必死になって生きているからこそできること。

アシタカは、愛があるからこそカヤにもらった小刀をサンに渡しているのです。

 

考えさせられる深いアニメ「もののけ姫」。

イケメン主人公のアシタカは、カヤにもらった小刀をサンにあげてしまう。

そこには一体どんな意味があっただろうか?

 

村を出る時、カヤはアシタカの身が守られるよう祈り、小刀を渡した。

しかし、最終的にはこの小刀をサンにあげてしまう。

このことに、ネットでは賛否両論あるようだが、私なりにこれを考察してみます。

 

 

 

小刀をアシタカへ渡すカヤの想い

アシタカの許嫁だったカヤはどんな想いで小刀を渡したのか?

そのヒントは見送りのシーンにあります。

 

 

カヤ
「兄さま」

アシタカ
「カヤ」
「見送りは禁じられているのに」

カヤ
「おしおきはうけます」
「どうかこれを。私のかわりにお伴させてください」

アシタカ
「これは?大切な玉の小刀じゃないか」

カヤ
「お守りするよう息を吹きこめました」
「いつもいつもカヤは兄さまを思っています」

アシタカ
「わたしもだ。いつもカヤを思う」

このやりとりから見ても、カヤが本当にアシタカの身を案じて想っていることがわかる。

一緒にいてほしい、そばにいてほしいという自分の願いよりも、何よりもアシタカの身に危険なことがないことだけを祈っている。

 

 

この短いシーンだけで、伴侶としては素晴らしい姿を見せてくれるのがカヤだ。

また、見送りが禁じられているにも関わらず、お守りとしてどうしても小刀を渡したかった。

 

 

ただその想いだけがとても強く感じられる。

カヤから小刀を受け取ったアシタカの想い

小刀がカヤの手からアシタカへ渡されるシーンをもう一度。

カヤ
「兄さま」

アシタカ
「カヤ」
「見送りは禁じられているのに」

カヤ
「おしおきはうけます」
「どうかこれを。私のかわりにお伴させてください」

アシタカ
「これは?大切な玉の小刀じゃないか」

カヤ
「お守りするよう息を吹きこめました」
「いつもいつもカヤは兄さまを思っています」

アシタカ
「わたしもだ。いつもカヤを思う」

この一連の流れでわかるのは、カヤの心の想いをきちんとアシタカは受け取っているということ。

想いは形として残し、それが小刀だったということ。

 

 

カヤがどんな気持ちで見送りに来てくれたのか。

それを瞬時に理解し、感じ取り、きちんと受け取っているところもイケメンなアシタカです。

カヤとアシタカは再開を約束しない

カヤとアシタカのやりとりを見ると、一切無駄な会話がない。

自分が何を思っているのか?

それだけをお互いにストレートに伝えているために、お互いにその意図をしっかりと受け止めている。

カヤが「行かないでほしい」、アシタカが「行くのをやめる」などと言い出せば、二人は何かがずれていただろう。

 

そのどちらもなく、互いに運命を受け止めて、今できることは何かをきちんと見定めている。

再開することは約束はせず、それもただ運命に委ねる。

それが二人の結論だということなのだ。

去り際のアシタカのセリフの意味は?

アシタカは、カヤと別れる時に

「わたしもだ、いつもカヤを思う」

それだけを言い残して去っていく。

この時のアシタカの心境はどうだったのか?

やはりここでも心の強さがうかがえる。

今は自分の運命を見定めにいくしかない。

カヤならわかってくれる。

いつ戻れるのか?

戻るのか戻らないのかもわからない。

ただ、いつもカヤを思うことだけは約束する。

そういった思いをこめた短いセリフだ。

 

作品を見ていると、アシタカは女たらしだとか嘘つきだとか言われるが、それは第三者目線で見ているからだ。

カヤの立場から、それが本当でも嘘でも関係はない。

戻ってこなかったとしても、アシタカがいつも思ってくれていると思えばカヤは強く生きていける。

それをわかっているのかいないのかはわからないが、さらっと言ってしまうアシタカは素晴らしい。

その言葉は、嘘でもなんでもないその時の素直な気持ちだということだ。

アシタカはなぜカヤにもらった小刀をサンにあげてしまったのか?

さて、ここからが本題。

セリフなどはすっ飛ばして、なぜカヤにもらった小刀をサンにあげたのかだけにフォーカスしていきます。

アシタカは、自分がいつも身につけていたその綺麗な小刀をサンに渡す。

 

そして、最後のシーンでは「会いに行くよ。ヤックルに乗って」と言っている。

これは、どこかで見たことのある光景だ。

そう、アシタカとカヤのやり取りとそっくりである。

アシタカはカヤから想ってくれる気持ちと小刀を受け取った。

そして、カヤにはアシタカから想っているという言葉を残した。

 

こうして、二人は互いに愛を与え合った。

アシタカは、いつも身につけていた小刀をサンに渡した。

サンはそれがあれば、これまでの出来事とアシタカの想いにいつでも触れることができ、強く生きられる。

そして、最後に「会いに行くよ」と言ってあげることで、その別れを辛くならないようにしている。

アシタカはカヤにもらった愛でここまで強く進んでこれた。

今度はそれをサンにも分け与えたということだと私は見ている。

 

「もののけ姫」という作品は、それぞれの人生を描きながらも、やはりアシタカという一人の人間を強く描いた作品だ。

常に強く、逞しく生き、自分の信念を貫いて生きる素晴らしい人間だ。

しかし、アシタカは神ではなく一人の人間。

 

やはりどこかに頼らなくては生きてはいけないし、いつまでも自分を犠牲にし続けることが正しさとも限らない。

行いは素晴らしくても、誰にも力を借りないその生き方が、かえって誰かを傷つけることがないとも限らない。

自分の目で見て、曇りなき眼で見定め、自分で考え、自分で行動する。

それだけで本当にいいのだろうか?

誰かにもらった愛を、他の誰かにまた分け与える。

それができる人間ほど素晴らしい存在はいない。

だが、それはどこまでも孤独な人生を歩むことを意味している。

 

見方によっては、アシタカは迷走し、着地点が見えない状態だともいえる。

アシタカとサンのその後の真相は?

結局のところ、アシタカとサンはどうなったのか?

結論から言えば、その答えはない。

宮崎監督は、「アシタカはその後~だっただろう」というコメントもしている。

だが、それは宮崎監督の見るその後のストーリーだ。

私は、アシタカはサンには会いにはいかず、自分の信念に従って生き、同じ運命ならばいつかどかで出会う。

そうした流れ、運命に身を委ねて生きていくと思う。

そして、その後どうなるのかはアシタカにサンにも宮崎監督にも誰にもわからない。

これが私の思うその後というものだ。

だが、これも私個人の感じることなので正解ではない。

宮崎監督は自分なりのその後をイメージしている。

だったらなぜそれを描かなかったのか?

そこに本当の意味が隠されている。

描かないことによって、見る人それぞれの未来が思い描かれるためだ。

また、見るタイミング、経験してきたこと、自分の置かれている状況によって、ストーリーや結末、その後まで変わってくる。

そのためにその後は描かないのだと私は思っている。

答えを知りたくなる気持ちもわかりますが、答えなんてものはない。

アシタカとサンがその後どうなったのかは、今と数年後では変わるはずだ。

 

「もののけ姫」という作品を見て、あなたは何を感じただろうか?

そして、アシタカとサンはその後どうなったと思うだろうか?

あなたなりの物語が見えたら、それがあなたにとっての「もののけ姫」のセカンドストーリーなのだ。

 

 

 

 

世界的にも認められている名作「もののけ姫」。

衝撃的なクライマックスを迎えながらも、最終的にはハッピーエンド。

かと思いきや、やはり謎が残ります。

アシタカとサンはその後どうなったのでしょうか?

 

「もののけ姫」は最初から最後まで目が離せず、その全てが考えさせられるアニメ。

ジブリアニメではお決まりの終わり方ですが、やはり気になるのはその後のことです。

アシタカとサンは、あれからどうしたのでしょうか?

アシタカの思いからその後を読み取る

サンとアシタカがその後どうなったのか?

 

 

その答えは、作品を通してしっかりと見ていれば見えてくることではないだろうか。

よくある恋愛物語なら、戦いは終わって平和になり、結ばれてめでたしめでたしといったところだろう。

だが、それだけではこの世界は終わらない。

アシタカの思いとは一体どんなものだったのか?

最初から最後までのアシタカの振る舞いを見てみよう。

自分に負けず、欲望に走らず、他を助け、誰もが共生していくことだけに力を注ぐ。

これがアシタカの思いではないだろうか。

となると、恐らくアシタカはサンと共に森で暮らすこともなければ、タタラ場にずっと居座ることもないはずだ。

いつまでもどこまでも世を乱すところを直していく。

自分の信念を曲げずに貫いていく。

それがアシタカ。

カヤと別れた時から恐らくそれは決まっていたことだろう。

 

アシタカの闘いは終わらない

ラストのシーンで、全てが解決したかに見えるが、アシタカの腕にはわずかな呪いが残る。

それが何を意味するのかは誰にもわからない。

しかし、それがアシタカも一人の人間であるという証拠。

どこまでも自分の運命を受け入れ、信じている世界を目指して走り続ける。

終わりがあるのかないのかもわからない。

 

それでもアシタカは理想とする世界を求めて、傷つきながら、迷いながらも自分と闘いながら生きていくのだと思う。

先のことなど誰にもわからない

こうした作品のその後というのは、決まっているものではない。

だからこそ、見ている人はこうしてずっと考え続けるのだ。

きちんとした結末があると、それで答えが決まってしまう。

しかし、未来は決まっているものではないし、終わりなどはない。

作品自体がこうした終わり方をすることで、それを伝えたいのではないかと私は思う。

これから先でどんな苦難が訪れるかはわからない。

 

ただ、アシタカは心に決めた思いだけは変わらない。

それだけで生きる意味は十分にある。

もしかしたら、サンとアシタカのその後、結末を問うこと自体が愚問なのかもしれない。

何がどうなっても同じこと

アシタカとサンの結末が決まっていたとする。

例えば、森でサンとアシタカは子供を作って暮らした。

例えば、タタラ場で嫁をもらって家族を作って暮らした。

それがあたかも結末のようにも思えるが、それが果たしてゴールなのだろうか?

例え家族を持とうが、森で暮らそうが、タタラ場で暮らそうが旅に出ようが、アシタカの心は変わらない。

そして、どんな道をたどったとしても、その先にはまた新たな試練がやってくる。

 

 

人は生きている限り、ゴールなどはない。

ただひたすらに自分の信じる道を突き進むしかない。

結論が出るのは全てが終わった時。

その人の人生が終わった時だ。

アシタカもサンもエボシも生きている。

だからこそ、その先の結末などはどうでもよく、その後どうなったのかはさほど関係のないことなのだ。

 

価値観によって感じ方が違う

ジブリアニメのすごいところは、一人一人のキャラクターがしっかりと描かれているところ。

リアルな人間像をきちんと表現し、どの視点で見るのかによって感じ方は大きく変わる。

例えば、「となりのトトロ」を幼少期に見た時には子供目線で見ていただろう。

しかし、大人になって家族を持てば親目線で見てしまうようになる。

「もののけ姫」を見た時に、自分が何を感じるのか。

どの目線で見ているのか?

 

中には、テレビの向こう側の世界だと考えながら見る人もいるだろう。

だが、ある程度経験のある人なら、登場する人物のどの目線でも見られるはずだ。

誰も悪くはない、それぞれが思う正義に向かっているだけ。

ただそれだけのこと。

アシタカはたまたまその主人公だというだけで、彼が正しいとは限らない。

その答えは誰にもわからない。

だからこそ、アシタカとサンがその後どんな行動をとったのかなどは知る由もない。

ひとつの戦いが終わり、それで全てが解決したように見えるのなら、そうなのだろう。

まだ戦いは終わらないと見れば、終わらないだろう。

どんな場面を切り取っても、見る人の価値観によって全てが変わる。

作品が終わってからの結末も見る人それぞれだってことだ。

 

 

スタジオジブリ制作の『紅の豚』。

1992年7月18日から東宝系で映画として公開され、今でも地味に人気のある作品。

この作品のシンプルな疑問として、主人公・ポルコロッソがなぜ豚なのかを考察、解説します。

 

大人の男性ならばある程度理解できる作品でしょう。

しかし、女性や子供を始め、単純な目線で見るとどうして豚なのかはよく意味がわからないだろう。

また、豚であることが理解できなければ、この作品の真意も読み解けません。

ポルコはなぜ豚なのか?

わかりやすくひも解いていきましょう。

 

 

ポルコ・ロッソってどんなキャラ?

ポルコ・ロッソは見ての通り、口髭をのある豚で体と脳みそは人間というアニメならではのキャラクター。

ポルコ・ロッソとは通称、イタリア語で「紅い豚」。

 

 

つまり、紅の豚そのままだ。

1893年生まれの36歳。

17歳のころから飛行機が大好きで乗り回していた。

イタリア空軍の大尉でエース・パイロットとして活躍して退役。

その後は、真っ赤な飛空艇サボイアS.21試作戦闘飛空艇に乗り、空賊を相手にする賞金稼ぎとして生きている。

 

 

ポルコ自身も、常に豚の姿でうろつき、様々な罪が課せられているお尋ねものでもある。

ポルコ・ロッソは魔法で豚になった!

作中では豚であることの説明はないが、ジーナのセリフから魔法で豚となっていることがわかる。

また、作品の設定上でも「自分自身に魔法をかけた」とされている。

ポルコは元々豚人間だったわけではなく、元々は普通の人間だったわけで、ある時から豚になってしまったということだ。

 

 

昔の写真を見ても、顔をぐしゃぐしゃに消されてはいるが、明らかに人間の姿をしている。

ポルコ・ロッソはなぜ自分に魔法をかけた?

作品をよく見て行けば、ある程度はこの意味は見えてくる。

豚になってしまったことで、国家からは様々な罪を受ける。

また、「飛ばねえ豚はただの豚だ」というセリフから読み解けるのは、(豚なんだからこれくらいしかやることない)というやさぐれの心。

しかし、ポルコは自ら豚になっている。

これをどう見るのか?

また、ジーナの言葉からも、ポルコがなぜ豚になっているのかもわかる。

 

 

ポルコが自分を豚にしている理由は、随所に散りばめられている。

仲間を失い、誰もいなくなり、どうしていいのかもわからない。

「いい奴は死んでった奴らだ」というセリフもある。

 

 

とにかくポルコは最初から最後までやさぐれ続け、自分を豚にすることで言い訳を作り、現実から逃げ続けているということだ。

真っ当に働くこと、ジーナと向き合うこと、国家や戦争を許すこと。

向き合わなければいけないことに向き合えず、「豚だから」と言って逃げているだけなのだ。

ポルコが人間に戻る時

ポルコは、作中で二度ほど人間に戻る。

 

始めはフィオとテントで寝泊まりするシーン。

 

二回目は、カーチスとの勝負に勝ち、フィオに別れのキスをもらった時。

二回目は正面からは描かれてはいないが、カーチスの反応からしてそれはわかる。

ここで、なぜ人間に戻るのかと言う疑問が残るが、答えは単純。

豚の姿は自分自身で魔法をかけている姿。

つまり、「豚=偽りの自分」であり、素の自分になっている時は人間に戻るということ。

隠れ家のテントでフィオと寝泊まりし、昔話をしている時には自分では気づかないうちに素の姿が出てしまっていたのだろう。

 

それが、純粋な目を持つフィオには見えてしまったのだろう。

 

あなたも豚になってはいないか?

ポルコロッソはこの時36歳。

子供時代に大人に見えたこの年齢だが、実際はかなり多感で変化の多い年ごろだ。

現実と向き合って素の自分を認めて生きるか、豚になってでも自分を偽って逃げ続けるのか?

 

自分がどう生きればいいのか悩んでいるのがポルコロッソ。

本当は気づいているのに気づかないふりをする。

作品のキャッチコピーは「カッコいいとはこういうことさ」だが、その意味をあなたはどうとらえるだろうか?

 

強がって生きるのか?

認めて生きるのか?

糸井重里さんの作ったこのキャッチコピーは、どちらのことを言っているのだろうか?

また、あなたも豚になってしまってはいないだろうか?

本当のカッコよさとは、一体なんなのだろうか。