ふたつの理念のあいだで支援者ができること

「本人のため」と考えて介入しすぎれば、本人の自己決定を奪ってしまう。
一方、「本人が決めたことだから」と何もせずにいれば、それが支援の放棄になってしまうこともあります。

パターナリズムと自己決定権の尊重。この二つの理念のあいだで、支援者は何を考えればよいのでしょうか。

こうして二つの場面を並べてみると、パターナリズムと自己決定権の尊重は、単純にどちらか一方を選べばよいという話ではないことが見えてきます。

パターナリズムに偏りすぎれば、本人から挑戦する自由や失敗する権利を奪い、自立の芽を摘んでしまいます。
かといって、自己決定権の尊重という言葉だけを盾に、本人の状態や意思の背景をきちんと見ないまま「本人が決めたことだから」と手を引いてしまえば、それは支援の放棄になりかねません。

大切なのは、その選択が「失敗した時の責任も引き受ける覚悟の上での自己決定」なのか、それとも「単に今自由にしたいだけ」なのかを、支援者が丁寧に見極めることだと思います。

前者であれば本人の人生の一部として尊重されるべきものであり、後者であれば本人の自立を支えるための適切な介入が必要な場面だということになります。

この見極めに、正解が一つに定まる公式のようなものはありません。

本人の言葉だけでなく、その奥にある背景、置かれている状況、これまでの経緯、そして本人が本当に何を望んでいるのかを、時間をかけて理解しようとする姿勢が求められます。

そして、この問題は生活上の自己決定だけにとどまりません。

職場では、「本人を守る」という善意が、仕事を任せないという形で現れることがあります。

次回は、私が「任せられない病」と呼んでいる、障害者雇用の現場で起こりがちなもう一つの問題について考えてみます。

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自己決定権を尊重すれば、それでよいのか

前回は、本人を思う善意から生まれる「パターナリズム」について考えました。

では、自己決定権さえ尊重すればよいのか。
「本人の意思をとにかく尊重すればよいのだ」と考えたくなるかもしれません。
実際、パターナリズムを乗り越える鍵として、福祉の現場では「自己決定権の尊重」が繰り返し語られます。

それ自体は間違っていません。
誰もが当たり前に自分の人生を選び取れる社会を実現するために、絶対に守られるべき理念です。
しかし、この理念を無条件に当てはめると、また別の問題が生まれます。

パターナリズムと自己決定

こんな場面を考えてみましょう。
グループホームに入所している方の中には、「早く寝なさい」と言う親がそばにいなくなったことで、深夜遅くまでテレビを見続けてしまう方も少なくありません。
その結果、睡眠不足になり、会社に遅刻したり仕事中に居眠りをしたりと、職場での服務規律が守れなくなるケースが出てきます。

こういうとき、本人やご家族の同意のもと、グループホームの職員に協力してもらいながら、生活リズムを整える支援が必要になります。

しかし、「私たちだって夜遅くまで起きている。何時に寝ようが本人の自由で、それを咎める権利は誰にもない」と、“自己決定権の尊重”を盾に主張される方もいるかもしれません。

これはまさに、先ほど述べた「パターナリズムに陥らない」という考え方そのものです。

確かにその通りかもしれません。
しかし忘れてはならないことがあります。
彼はまた、「企業で働く」ということを自ら選び、就職したのではなかったでしょうか。

雇用とは、企業と労働者が個別に労働契約を交わすことです。
労働者の側には労務提供義務があり、月曜日から金曜日まで決められた時間、自らの能力を発揮して会社に貢献する契約をしている以上、はつらつと働けるよう自分の体調を管理する義務も同時に負っています。

深夜番組を見続け、遅刻や居眠りを繰り返す業務態度は、この労務提供義務を果たせていないということです。
「将来的に懲戒処分を受けるかもしれない。」
「改善が見られなければこの会社で働き続けられなくなるかもしれない。」
そうしたリスクをすべて承知の上で、それでも夜遅くまで起きていたいのだというなら、それは自己決定権として尊重されるべきでしょう。

しかし、そこまでの覚悟があるわけではなく、単に生活リズムが乱れているだけなら話は別です。
その場合はやはり、身近な支援者が適切なサポートに入る必要があると思います。

「本人の意思を尊重すること」と「本人にすべてを任せること」は、同じではありません。

では、その境界線を支援者はどのように考えればよいのでしょうか。

次回は、パターナリズムと自己決定という二つの理念のあいだで、支援者に何ができるのかを考えます。

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はじめに

「パターナリズム」という言葉をご存知でしょうか。日本語では「父権的干渉主義」と訳されます。文字通り読めば「父の権力によって子を干渉する」ということ。つまり、本人が失敗しないようにと第三者が代わりに判断し、道筋をつけ、危ない橋を渡らせないようにすることです。

一見、これは「愛情」や「思いやり」と紙一重に見えます。
だからこそ厄介です。
悪意ではなく善意から生まれるものだからこそ、本人も支援する側も、それが自立を妨げているという事実になかなか気づけません。

私は障害者雇用に携わる中で、このパターナリズムと、その対極にある「自己決定権の尊重」という二つの概念のあいだで、何度も立ち止まって考えさせられてきました。

今回はまず、「本人のため」という善意が、ときに本人の自立を妨げてしまうパターナリズムについて考えてみたいと思います。

パターナリズムという壁

たとえば、あなたに高校三年生の息子がいるとします。

大学受験を控えた大切な時期に、彼はろくに勉強もせず、毎晩遅くまで駅前の高架下で路上ライブを続けています。
大学に進学するつもりはなく、東京に出てプロのミュージシャンになる夢を追うつもりだからです。

 

 

そんな息子に、あなたは何と言うでしょうか。

多くの親は「何を馬鹿なことを言ってるんだ、もっと現実を見なさい」とギターを取り上げてしまうかもしれません。
しかし彼にとっては、プロを目指して音楽を続けることこそがリアルな現実であり、ギターを手放すことのほうが非現実なのです。

言っても聞かない息子に、あなたはついに「お前のために言っているんだ。苦労して不幸にならないために言っているんだ」と、無理やり家に引き戻すかもしれません。

これがパターナリズムです。

しかし、本当にそれで正しかったのでしょうか。
苦労するリスクを承知の上で、それでも夢を追いかけることこそが自分の歩むべき道だと本人が考えているなら、親のその行為は本人の自立を妨げ、選択の自由そのものを奪ってしまいます。

「あなたのため」という言葉の裏には、親自身の安心があったのかもしれません。

障がいのある方は、大人になってからも、こうした強いパターナリズムに囲まれ続けることが少なくありません。

「障がい者=保護の対象」と無意識に考えてしまう人は、企業内に非常に多くいます。いや、支援者や家族にも、まだ多いように思います。

けれどもこれは裏を返せば、「チャレンジする自由」「失敗する権利」「失敗から学ぶ機会」を、本人から静かに奪ってしまっているということです。

本人を真剣に思うが故のサポートであっても、「失敗しないこと」を押し付ける、あるいは本人も気づかないうちにそちらへ誘導することは、結局「第三者の目から見た最善の保護」でしかありません。
そしてそれは、自立の妨げにもなり得るのです。

では、パターナリズムを避けるためには、本人が望むことをすべて尊重すればよいのでしょうか。

ここに、もう一つ難しい問題があります。

次回は、パターナリズムの対極にある「自己決定権の尊重」について考えてみます。

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~前回は「福祉には福祉だからこそできる役割がある」というお話をしました。今回は最終回、「幸せは一つではない」というテーマと、あれから20年経った今思うことをお伝えします~

■ 幸せは一つではない

私は企業で障害者雇用を推進しています。
だからこそ、一般就労だけを特別視したくありません。

幸せの形は一つではありません。
企業で活躍する人もいれば、福祉サービスを利用しながら地域で暮らす人もいます。
どちらが上でも下でもありません。

社会が目指すべきなのは、一つのゴールへ全員を導くことではなく、一人ひとりが自分らしい人生を歩める選択肢を増やすことではないでしょうか。

企業には、働ける環境をつくる責任があります。
福祉には、その人らしい人生を支え続ける力があります。
地域には、多様な生き方を認め合う寛容さが必要です。

私は、この三つがそろって初めて、本当の意味で「共生社会」が実現すると信じています。

一般就労はゴールではありません。
幸せも一つではありません。
だから私はこれからも、企業には企業の役割を、福祉には福祉の役割を、それぞれ大切にしてほしいと願い続けています。

■ あれから20年 ── 今、思うこと

あのシンポジウムから、20年が経ちました。
この間、障害者雇用を取り巻く制度は大きく変わりました。

法定雇用率は段階的に引き上げられ、2006年の1.8%から2026年7月には2.7%となりました。
企業の実雇用率も1.49%から2.41%へと上昇し、精神障害のある方の雇用者数は2006年当時と比べて60倍以上に増えています。

こうした変化は、企業関係者、福祉関係者、そして当事者やご家族が、それぞれの立場で粘り強く取り組み続けてきた成果だと思います。
数字だけを見れば、「福祉から雇用へ」という流れは、この20年で大きく前進しました。

しかし、手放しでは喜べない現実もあります。
法定雇用率を達成している企業は、今なお全体の半数程度にとどまっています。
また、一般企業に就職した精神障害や発達障害のある方の平均勤続年数は、一般労働者と比べるとまだ半分にも届きません。

就職できたかという「入口」の数字は伸びても、その人が安心して働き続けられているかという「その先」の課題は、依然として残されたままです。

一方で、制度には新しい動きも生まれています。

2025年10月からは、「就労選択支援」という新たな制度が始まりました。
一般就労を目指すのか、福祉的な働き方を選ぶのか。
本人の希望や適性を踏まえながら、一緒に考えていくための支援です。

その背景には、一度福祉的就労を利用すると一般就労へ移行しにくくなるという、長年の課題がありました。
現場、研究者、行政が議論を重ね、その積み重ねが制度として形になったのです。

「本人が自分の人生を自分で選ぶ。」

その考え方は、「一般就労だけが全てではない」「幸せは一つではない」という思いとも重なります。
多くの人が同じ方向を見つめ、模索を続けてきた結果なのだと感じています。

20年前、私は「一般就労こそが真の幸福である」という空気に違和感を覚えました。
きっと、当時も同じような思いを抱いていた人は少なくなかったはずです。
ただ、それを制度として形にするには、多くの人の対話と長い時間が必要だったのでしょう。

そして今、一般就労への流れはさらに強まる一方で、「本人が選ぶこと」を支える制度も少しずつ整い始めています。

それでも、現場の空気が本当に変わったかと問われれば、私はまだそうと言い切ることはできません。
就職者数や移行率といった数字を追いかけるあまり、「その人が、どのように生きたいのか」という最も大切な問いが、後回しになってはいないでしょうか。

これは企業だけの課題でも、福祉だけの課題でもありません。
私自身を含め、この仕事に関わるすべての人が、これからも問い続けていかなければならないことだと思っています。

「障害者にとって、一般就労が全てではありません。」
それは20年前も、今も、そしてこれからも変わることのない、私の思いです。

(最終回・全4回、お読みいただきありがとうございました)

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~前回は「幸せは経済的自立だけで決まらない」というお話をしました。今回は、私が福祉に期待していることについてです~

 

■ 福祉に期待すること

 

シンポジウムの最後、会場からこんな質問がありました。

「企業の立場から、福祉に期待することは何ですか。」

 

私はこう答えました。

「社会福祉の充実です。」

 

会場は少し意外そうな空気になりました。

 

もちろん、生活リズムを整えることや社会生活の基礎づくりなど、就労準備支援はとても重要です。

しかし、それ以上に私が福祉に期待したいことがあります。

 

それは、一般就労を選ばなかった人、あるいは選べなかった人が、地域社会の中で誇りを持ち、自分らしく暮らせる社会を支え続けていただくことです。

 

実は私は、障害者雇用は福祉課題だとは考えていません。障害者雇用は、企業の経営課題です。

労働力需給の問題であり、多様な人材を活かすダイバーシティ経営であり、組織づくりの課題です。本来努力すべきなのは企業側なのです。

 

どれだけ福祉が本人を支援しても、企業に受け入れる力がなければ就職は実現しません。

だから私はいつも、「障害は会社の中にある」と発信しています。

 

障害があるから働けないのではありません。

働けない理由を、会社がつくってしまっていることが少なくないのです。

 

・仕事の与え方

・コミュニケーションの取り方

・評価制度

・職場文化

・合理的配慮

 

こうした環境が変われば、多くの人は力を発揮できます。

私は30年間、その現場を見続けてきました。

だからこそ、企業にはもっと変わる力を身につけてほしいと思っています。

 

■ 福祉には福祉だからこそできる役割がある

 

一方で、企業支援は企業文化を理解している人が担うほうが効果的だとも感じています。

もちろん、事業主支援に優れた福祉機関もたくさんあります。

しかし、企業と福祉では文化も価値観も違います。

 

利益、品質、納期、安全、組織運営。

企業には企業の論理があります。

だから障害者雇用を広げるには、企業側の文化を理解した人たちが企業を支援する仕組みも必要です。

 

そして福祉には、福祉だからこそ守れる価値があります。

 

私は、作業所が誕生した歴史をとても大切に思っています。

 

そこには、障害のある子どもを持つ親たちの切実な願いがありました。

「たとえ一般就労が難しくても、地域で仲間と働き、孤立することなく、笑顔で暮らしてほしい。」

 

その願いは、言葉だけでは終わりませんでした。

当時は、今のように障害福祉サービスが整っていた時代ではありません。

働く場も、日中を安心して過ごせる場所も十分になく、多くの親たちは「誰かが作ってくれる」のを待つのではなく、自分たちの手で道を切り拓きました。

 

休日になると公園でバザーを開き、手作り品を販売し、街頭で募金活動を行い、地域に協力を呼びかけながら、一つひとつ資金を集めて作業所を設立していったのです。

 

 

そうした草の根の活動が全国各地で広がり、多くの作業所が生まれました。

私は、この歴史を決して忘れてはいけないと思っています。

 

作業所は、単なる「一般就労までの通過点」として生まれたのではありません。

障害のある人が、地域の中で仲間とともに働き、自分らしく暮らし続けられる場所をつくりたい。

その親たちの願いと、市民の支えによって築かれてきた大切な財産なのです。

 

制度は変わります。

法律も変わります。

サービス体系も変わります。

しかし、その原点だけは決して失ってはいけないと思うのです。

 

――次回は最終回。「幸せは一つではない」というお話と、あれから20年経った今、思うことをお伝えします。

 

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~前回の続きです。20年前のシンポジウムで感じた違和感から、私が考える「自立」についてお話しします~

 

■ 私が考える「自立」とは

 

一般的に「自立」というと、一人で身の回りのことができること(ADL自立)や、自分の収入で生活できること(経済的自立)を思い浮かべる人が多いでしょう。もちろん、それらは大切です。

しかし本当にそれだけでしょうか。

 

私は、自立とは「自分の人生を、自分で選び、自分で決めながら生きていくこと」だと考えています。

 

たとえ食事や入浴に介助が必要であっても、どこで暮らし、誰と暮らし、どのような働き方を選び、どのような人生を歩むのかを、自分自身で決めることができる。

その人は十分に自立しているのではないでしょうか。

 

反対に、一般企業で働いていても、自分の意思ではなく周囲の期待や制度に流され、自分らしい生き方を選べていないとしたら、それを本当に自立していると言えるでしょうか。

 

私にとって一般就労は、自立そのものではありません。

自立を実現するための、一つの選択肢であり、一つの手段です。

 

■ 幸せは経済的自立だけで決まらない

 

「一般就労こそが真の自立である」という考え方の背景には、経済的に自立することがその人の幸せにつながる、という価値観があるのでしょう。

 

確かに、自分で収入を得て生活できることは、多くの人にとって大きな喜びであり、生きがいや自己実現につながる大切なことです。

 

しかし、それだけが人の幸せを決めるのでしょうか。もしそうなら、障害の程度によって一般就労が難しい人や、多くの介助を受けながら暮らす人は、幸せになれないということになってしまいます。

 

私は、決してそうは思いません。

 

これまで私は、一般企業で働いていない方が、地域で役割を持ち、多くの仲間に囲まれ、生き生きと暮らしている姿を数え切れないほど見てきました。

 

・毎日作業所へ通い、自分の仕事に誇りを持っている人

・地域活動に参加し、多くの人とのつながりを大切にしている人

・趣味や創作活動を通して、自分らしい生き方を見つけている人

 

自分で選んだ場所で、自分らしく暮らし、役割を持ちながら毎日を送る姿は、とても豊かで充実した人生に見えました。

 

幸せは、働く場所だけで決まるものではありません。

どこで働くかではなく、どのように生きるか。

誰かが決めた価値観ではなく、自分で選んだ人生を歩んでいるか。

私は、そのことのほうがはるかに大切だと思っています。

 

――次回は、シンポジウムで受けたある質問と、私が「福祉に期待すること」についてお話しします。

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~シンポジウムでの違和感~

 

 

今から約20年前、私はある地方の障害者就労支援シンポジウムに招かれました。

 

2006年、障害者自立支援法が施行された直後のことです。

 

この法律は、障害者福祉の大きな転換点でした。

 

それまでの福祉は「地域で安心して暮らすこと」「日中活動の場を確保すること」に重点を置いていました。 

 

授産施設や小規模作業所は、一般企業への就職が難しい人たちにとって、仲間とともに働き、社会とつながりながら暮らす大切な居場所でした。

 

もちろん一般就労を目指す支援もありましたが、それは福祉の目的の一つであり、すべてではありませんでした。

 

しかし法律の施行後、状況は大きく変わります。 新たに就労移行支援事業が創設され、多くの授産施設がその事業へ移行しました。

 

 「障害のある人を一般企業へ送り出すこと」が、福祉現場の重要な役割として位置づけられるようになったのです。

 

この政策転換には大きな意義がありました。 

 

企業で働きたいと願う人の可能性が広がり、「福祉から雇用へ」という流れが全国で進み始めました。

 

一方で、私は少し気になることがありました。 いつの間にか「一般就労こそが真の自立であり、真の幸福である」という空気が、福祉の世界全体に広がり始めていたのです。

 

私が招かれたシンポジウムも、まさにそうした時代でした。 会場には就労移行支援に携わる職員が大勢集まり、企業から成功事例を学び、どうすればもっと一般就労につなげられるか、熱気に満ちていました。

 

しかし、主催者のあいさつや司会者のコメント、他のパネラーの発言を聞くうちに、私は違和感を覚えました。 

 

その多くが「一般就労こそが、真の自立である」という前提で語られていたからです。

 

私はその頃も、20年経った今も、この考え方には共感できません。 

 

私が考える「自立」は、一般就労や経済的な自立とは、少し意味が違うからです。

 

――次回は、私が考える「自立」とは何かについてお話しします。

 

 

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個人モデルでは、障害を治療の対象、リハビリの対象として、障害を克服する努力を求めました。

 

社会モデルでは、障壁は社会の側の課題であるのだとし、社会の変革を求めました。

 

個人モデルと社会モデルは、一見対象的な視点に立っているように見えますが、実はその主体こそ違えど、障害を「乗り越えるべき課題」であると認識している点では共通しています。

 

しかし文化モデルは、全く違った視点に立っています。

 

“障害”そのものをまったく問題にせず、その障害特性ゆえの独特な行動を“文化”と捉えているのです。

 

例えば、ろう者(ここでは、日本手話を第一言語とし、ろう教育を受けて育った、強い同胞意識で繋がっている聴覚障害者のことを「ろう者」と呼ぶことにします。)のコミュニティーでは、

 

「耳が聞こえない」という事実を病理的視点からの“障害”と捉えるのではなく、「日本手話を日常言語として用いる者」、つまり障害者ではなく「言語的マイノリティー」だと主張しています。

 

そしてこれを“ろう文化”と言い、自らの存在を肯定的に語っています。

 

視覚障害者にとっての点字の使用や白杖での独得な歩行の仕方、

 

肢体不自由者にとっての車椅子での移動やよつばい姿勢での身体移動、

 

知的障害者の摩訶不思議な拘りや飛び跳ねるような動作で進む行動など、

 

文化モデルでは、ともすれば奇異・傍迷惑として扱われてきた障害特性を、独自の文化として捉えなおし、肯定する価値観を持っているのです。

 

私は、障害者雇用の現場における就労支援や職場適応援助のシーンにおいて、支援計画を検討する際、思考の漏れをなくすため、これら3つの障害モデルにそって支援策を検討することをお勧めしています。

 

そこで、個人モデル支援・社会モデル支援・文化モデル支援という3つの支援モデルを作りました。

 

少しおさらいをします。

 

個人モデル支援は、「障害者を企業が求める人材に近づける為に直接本人に働きかける支援」と定義付けました。

 

また、社会モデル支援を、「障害特性が不利とならないように企業側を環境調整する支援」としました。

 

人を変えるのか、職場を変えるのかという違いはありますが、やはり共に課題を克服するための支援方法であるという点では共通しています。

 

そして、3つ目の文化モデル支援ですが、これまでの2つのモデルとは全く違い、障害をとことん肯定する視点を持たせることとし、「障害特性を強みに変える支援」と定義しました。

 

文化モデル支援では、何も変えません。むしろそのまま活かすのです。

 

強いて言うなら、我々の思考を変えるのです。

 

例えば、常に腕時計を意識し、いつもキリの良いジャストタイムにしか行動をしない時間への強い拘りがある自閉症の方がいるとします。

 

個人モデル支援では、彼から腕時計を取り上げ、仕事に集中させるように指導するということになるのでしょうが、実際にはなかなか思うようにはいかないものです。むしろ腕時計がない不安がストレスを生み、パニックを起こしてしまうなど、逆効果になる場合もあります。

 

そこで文化モデル支援では、「毎日11時になるとこの仕事をしてください」、「毎週水曜日の15時半にはこの仕事をしてください」というように、毎日の仕事をジャストタイムで行動できるようにスケジュールを固定化するのです。

 

 

そうすることで、上司がいちいち指示しなくても、出張から帰ってくるときっちり仕事が終わっているというように、時間通りに作業を進めてくれているでしょう。

 

特に時間の正確さが求められる仕事を担当していただくと遅延がなく助かります。

 

時間への拘りをうまく強みに変えることができた事例です。

 

これが文化モデル支援です。

 

しかし、正直に言うと、この事例のようにうまく強みに変えられるケースは稀です。

 

「視覚障害者は、見えない分音に敏感で音楽センスに優れている。」

 

「知的障害者は、純粋で邪念がないため、あっと驚く美術作品を生み出す。」

 

などは良く聞く美談ですが、実際には全ての障害者がそのようにいく訳ではありません。

 

どちらかというと、極々稀なレアケースです。

 

このように、文化モデル支援は障害者の尊厳を守ることができる支援方法である反面、最も難しい支援方法と言わざるをえないのも事実です。 

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個人モデルが、障害(impairment=損傷)を医学的な治療の対象、つまり“異常”であり、治すべき対象、もしくはリハビリを受けて克服すべき対象とし、健常者に近づく努力を求めているのに対し、

 

社会モデルでは“障害(disability=障壁・差別)”を障害者自身の問題ではなく社会の側の問題として捉え、一貫して社会の変革を主張しています。

 

勿論治療やリハビリそのものを否定はしませんが、それを必修と位置づけていません。

 

社会モデルにとって、治療やリハビリはオプションといったところなのです。

 

それを受けるかどうかは本人が自己決定すればよいことであって、仮に「受けない選択」をしても不利な立場に立たされてはいけない。

 

あくまでもdisabilityは社会の側にあるのだという認識なのです。

 

そして、障害者雇用の現場において、私が新たに定義する社会モデル支援とは、障害者に教育・訓練を強いて、その人そのものを企業が求める人材に変えようとする個人モデル支援とは対象的に、

 

障害者の個性・特性を十分に把握した上で、それが不利とならないよう会社側を変えようとする支援のことを言います。

 

もしある障害者が、その障害特性(impairment)ゆえに働きにくい状態があったとしたら、それはあくまで本人ではなく企業側に課題(disability)があるのだと考え、その障害者が働きやすいよう環境調整を行うという支援方法です。

 

例えば視覚障害者がパソコンを使って業務が出来るように、点字ディスプレイや音声読み上げソフトを導入するなどの設備改善。

 

車椅子利用者が不自由なく行動できるように施設を完全バリアフリー化にするための設備改修。

 

聴覚障害者が社員教育を受ける際に手話通訳をつけるなどの物理的環境改善、

 

などがそれに当てはまります。

 

決して特別なことではありません。

 

身体障害者の雇用においては、実に古くから行われてきた解決方法です。

 

もちろん身体障害者ばかりでなく、知的・精神・発達障害者にも有効です。

 

知的障害者や発達障害者には、本人が間違いなく作業できるようなやり方に作業手順を見直す「職務再設計」や、「ジグの開発」なども社会モデル支援となります。

 

さらには、管理職者や同僚に対し、障害特性に関する理解とサポート方法の教育を行うなどの人的環境改善。

 

また、個々の障害者に応じて、服務や処遇を柔軟に対応させたり、障害特性ゆえの理由から通勤が困難な事業所への異動を免除するなどの配慮や、またそのことが昇給を妨げる影響につながらないようにするなどの合理的配慮も社会モデル支援となります。

 

つまりは企業が障害者の属性に合わせていくのが社会モデル支援なのです。

 

先にも言いました通り、身体障害者の雇用促進の場面においては、これまでこの社会モデル支援で解決してきました。

 

誰も車椅子利用者に階段を這い上がる訓練を強いたりはしなかったはずです。

 

玄関にスロープを敷いたり、エレベーターや階段昇降機の設置、車椅子利用者用のトイレや駐車スペースを設置するなどして解決してきたはずです。

 

つまり、個人モデル支援ではなく、社会モデル支援を選択してきたのです。

 

しかし今、知的・精神・発達障害者の就労支援の現場を見ると、どうも会社側を変えようとする動きより、障害者本人を企業で通用する人材に変えようと、「がんばれ、がんばれ」と言いすぎている気がします。

 

もちろん個人モデル支援も必要です。

 

しかし、前回でも言いましたように、変えることの出来ない障害特性ゆえの限界があり、本質的な支援にはなりにくいと感じています。

 

極端な例ですが、わかりやすく説明しましょう。

 

あなたの会社の玄関が、大きく陥没してしまったとしましょう。

 

 

その穴を乗り越えられる体力をつけさせるのが個人モデル支援です。

 

その穴を埋めようとするのが社会モデル支援です。

 

あなたなら、どちらの支援を優先しますか。

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前回は、個人モデル・社会モデル・文化モデルについて解説しました。

 

私は、これを障害者雇用の現場における職場適応援助の場面に置き換え、

 

・個人モデル支援
・社会モデル支援
・文化モデル支援

 

という3つの言葉を作りました。

 

職場不適応な状態にある障害者の職場適応援助を行う際、この3つの視点で支援の方法を検討することをお勧めしています。

 

それぞれの視点は互いに補い合うものであり、どれか一つが絶対に正しいというわけではありません。

 

状況や対象者に応じて、どの視点から支援を組み立てるかを柔軟に考えることが、より効果的な援助につながると考えています。

 

 

個人モデル支援とは

 

個人モデルとは、障害を個人の問題と捉え、治療やリハビリテーションの対象とし、障害を克服して健常者に近づく努力を求める考え方です。

 

これを職場適応援助の場面に当てはめると、障害者に対して教育・訓練を行い、企業が求める人材像に近づける支援、つまり「障害者を変える」支援が、個人モデル支援ということになります。

 

個人モデルそのものは、社会から批判の標的となってきました。

 

障害を「個人の欠如」として捉え、社会や環境の側の問題を見えにくくするという批判は、一定の正当性を持ちます。

 

しかし、個人モデル支援を一概に否定することは適切ではないと考えています。

 

なぜなら、人材育成は障害の有無を問わず、あらゆる組織において普遍的に行われるものだからです。

 

人材は重要な経営資源の一つです。

 

どのような企業・団体であっても、組織の目標達成に力を発揮できるよう、メンバーの能力を伸ばし、育てていくことは当然の営みです。

 

私自身も、これまでのサラリーマン人生の中で、リーダーシップや問題解決、戦略立案、労務管理など、さまざまな教育を受けてきました。

 

これらもまた、私が定義する個人モデル支援に当てはまります。

 

知的・精神・発達障害者に対してよく行われている支援も、この枠組みに含まれます。SST(社会生活技能訓練)やカウンセリング、そしてシステマティック・インストラクション(言語指示→ジェスチャー→見本提示→手添えの順に、最小限の介入で指導する方法)などがその代表例です。

 

これらはいずれも、本人の力を引き出し、社会や職場への適応を促すことを目的とした、れっきとした専門的支援です。

 

 

個人モデル支援の限界

 

しかし、個人モデル支援には大きな限界があることも事実です。

 

まず、即効性に欠けるという点です。

 

人の行動や思考のパターンは、長い時間をかけて形成されたものです。

 

それを変えていくには、相応の時間と継続的な関わりが必要であり、短期間での成果を求めるのは現実的ではありません。

 

手間暇がかかる割に、目に見える変化が現れにくいというのが正直なところです。

 

また、SSTやカウンセリングのような専性の高い支援は、本来、訓練を受けた専門家が行うものです。

 

企業内で職場の指導者がそれを担おうとすると、どうしても質・量ともに限界が生じます。

 

専門家でなければ対応しきれない局面も少なくありません。

 

さらに問題なのは、個人モデル支援が「最初に思いつく支援策」になりがちだという点です。

 

障害者のできない部分ばかりに着目し、「課題は本人にあるのだから、本人を変えればいい」と思い込んでしまった場合、真っ先にこの支援策が選ばれます。

 

しかし皮肉なことに、個人モデル支援は3つの視点の中で最も難しく、最も成果が出にくい支援策であると私は考えています。

 

「労多くして功少なし」という言葉がありますが、まさにそれを地でいくケースが少なくありません。

 

障害の有無に関わらず、人はそう簡単には変わらないものです。これは障害者に限った話ではなく、人間という存在そのものの性質と言ってよいでしょう。

 

にもかかわらず、指導者が「なぜ変わらないのか」「なぜできないのか」という視点で関わり続けると、どうなるか。

 

指導者はいくら働きかけても手応えが得られず、次第にイライラや疲弊を募らせます。

 

一方、障害者はできないことを繰り返し求められ、失敗体験を積み重ねることで自己肯定感を失っていきます。互いにストレスを生み、関係が悪化していく悪循環に陥るケースは、現場でよく耳にする話です。

 

カウンセラーなどの専門家が、適切な環境と時間の中で行う個人モデル支援は、もちろん意義のあるものです。しかし企業内で、職場の指導者が担う支援としては、あまり有効とは言えないかもしれません。

 

だからこそ、個人モデル支援だけに頼るのではなく、次回以降で取り上げる社会モデル支援・文化モデル支援の視点を組み合わせることが重要になってきます。

 

(次回は、社会モデル支援について考えたいと思います。)

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