ブログをご覧の皆さま
いつもありがとうございます
真崎です
「ただの真崎のお話です」シリーズ
最終記事を前に一旦萎えました
というか
執筆している途中に
「これ前も書いた気がする」
と気付いた瞬間書く意味が飛びました
人間とは
やる意味が分からない事は
できない生き物なんですよね
(自己擁護)
で、もっと言えば
それ以上に「今すぐ書きたい」と思える内容がおちてきた感じです
「依存」です
「依存」については
本当にずっと書きたいと思っていました
世の中のカップル各位が
クリスマスだ
バレンタインだ
ホワイトデーだ
毎日がエブリデイだ
的な幸せにうつつを抜かしている
その一方で
真崎は
薄暗い部屋にこもって
本読んだりブログ書いたりしながら
「孤独とは?」
「善とは?」
「悪とは?」
「人間とは?」
至極女子力低めな事を
気付いたらずっと考えてます
そしてひたすら浮かぶままに
Twitterで140字めいっぱい使って
気が済むまで連続ツイートして
毎回2~3個くらいふぁぼられて
2~3人くらいにフォロー外されてます
@muttYaaaaaaaan3です
で
だいぶ前から
自分の中でずっとホットワードだったのが
『依存』
です
薄暗い部屋の中で
それこそこたつに依存しながら
「依存とは?」
「依存の危険性とは?」
みたいなことを
随分昔や最近経験したことを絡めながら
わりとよく考えていました
今年に入ってからは特に
「依存」に関するツイートが
増えていた気がします
以下、実例です
『自分がなによりも恐れ、嫌悪するものが「依存」なんだと思う。人にも。組織にも。環境にも。「依存」することがすごく怖いし、「依存」してる人を見ても怖くなる。』
『「仲間意識」とか「組織愛」みたいな言葉に過剰反応してしまうのも、きっとそれが原因。目的が「そこにいること」「その人(達)といること」にすり替わる気がしてすごく怖いんだと思う。上手く言えないけど、弱くなる気がする。』
『この1年間自分がいた環境。したい事と求められる事が一致してて全力で走ってこれたし、そこにいる仲間が大好きで、尊敬していた。なにも言わずとも自分のことを感じて理解してくれる存在は、いつも自分に安心と居心地の良さをくれていた。
そこに依存すまいと、意識はしてた。』
『自分がほんまに辛いとき、もたれかかれる人や、戻りたい空間があることは、必要やと思う。それは「依存」じゃないと思う。
ただ、それらも「相対」やから、ずっと変わらず自分を待っててくれる・受け入れてくれるっていう、そんな保証はない。的な。』
改めて
客観的に自分のつぶやきを見ると
本当に可愛げのかけらもなくて
多少悲しくはなるんですけど
これから「人」「孤独」と向き合っていきたいと思っている身として
「依存」について考察することは
不可避であると考えています
ということで書いていきます
「依存」に関するお話です
なんとなく長く気がするので
どんな感じになりそうかだけ
最初に書いておきます
1.真崎が「依存」を恐れる理由
2.『「空気」と「世間」』という本
3.「依存」から脱却するには
あ、3つですね
本題に入る前に
最初に書いておきたいのは
真崎が思う「依存」の定義は
『その対象となる人・物がなければ生きていけない状態』
ということです
1.真崎が「依存」を恐れる理由
前提として
真崎が恐れる「依存」は
対ひと、である事がほとんです
(集団となる場合もある)
アルコール依存や麻薬依存
その他いろんな形はあると思うですけど
今から出てくる「依存」は
ほぼ「対ひと(集団)」である
という認識を持っていただきたいです
その前提をもって
真崎が「依存」を恐れる理由を書くなれば
『ひとは怖いから』に、他なりません
真崎は
人が大好きで
同じくらい人が怖いです
なので
大好きやけど
「信じる」ということに
ひどく抵抗があります
小中学生の時に
「ハブ」になった話は
ブログでもわりとしています
5~6年生の時に
初めて「女子集団」に属して
昨日までは普通に話していたのに
次の日学校に行って声をかけると
友達間で醸される空気が変わっている
明らかに避けられ
陰で悪口・嘲笑され
孤独な「ハブ」の姿を見て相対的に安全な自分たちの足場を手に入れる
こんなクソくだらない遊戯に
当時の真崎は毎日涙を流していたわけです
こんなに極端なのは
この時だけだったんですけど
小学校~大学まで
いろんな人間関係にふれる中で
すごく被害者っぽい言い方ですけど
「やっぱり人って怖いなあ」
と感じてしまう自分がいました
大人数で
「みんな大好き♡」とか言って
きゃいきゃいとつるみながら
裏では平気で
一緒にいる友達をけなして
その悪口をもはや楽しんでいる人たちがいたり
(女子グループあるある)
親友と言ってたふたりが
恋愛に関する問題を経て
いつの間にか犬猿の仲になっていたり
「あなたしかいない」的なこと言いながら
盛んに浮気してる女性を見たり
「友達」
「親友」
「恋人」
「仲間」
「家族」
いろんな関係性がある中で
それらを構成するのが
「ひと」である以上
「永続的に同じ状態が続いていく」
ということは
ほぼ、ありえないと思っています
だから
ひとに「依存」するのは
すごく怖いと思います
「相方と一緒じゃないと生きていけない」
という状態で付き合ってたカップルが別れ
彼氏の方が自殺未遂をした
という話も聞きました
ひとを「依存」させることで
悦に浸ったり
金儲けに利用するひともいる気がします
一緒にいてくれると思った友人たちが
次の日には自分を仲間外れにする
「この会社に入れば安心」と思って
入社を決めた会社が
しばらくして倒産する
神の前で
永遠の愛を誓った夫婦が離婚する
変わらない
なくならない
いなくならない
そんな保証のない
ひとに
場所に
「依存」してしまった時
そのひとは
いつか
「自分」で生きていけなくなる
「自分」の足で立てなくなる
そう思います
あとは
さっきのツイートにも
ちらっと出したやつで
これは「依存」とはまた別の話になるかもしれないですけど
自分が
Teach For Japanという教育系NPOで活動しながらずっと意識してたのは
「その環境にいること」
「その人(達)といること」
これを「目的化」しないことです
環境も人も変わる中で
もしその目的がすり替わり
それらに「依存」した状態が出来上がると
真崎にとってTFJは
「すべては子どもの為に」
という組織ではなくなってしまうからです
それが自分の中ですごく怖くて
だからこそ
「仲間意識」「組織愛」
といった言葉が嫌いで
今でこそ
自分の中にある
「目的」ではないけど確かな気持ちとしてアウトプットできる
「仲間が好き」
「TFJが好き」
ということを
一時期までは絶対に口外しないようにと
すごく意識していました
ということで
1だけですごく長くなったんですけど汗
要は
・「相対」の中で生きていけなくなる
・本当の目的を見失う
真崎が「依存」を恐れる理由です
2.『「空気」と「世間」』という本
鴻上尚史さんという
劇作家の方が書いた新書です
ご存じの方もいらっしゃると思いますが
真崎は普段
新書なんかほとんど読まず
読む本は9割方小説で
そのうちの8割が重松清です
たまたま友人のシェアハウスに行った時
題名からがっつり惹かれて思わずレンタルしてきたのが
この『「空気」と「世間」』でした
ということで
久しぶりに
新書というやつにふれたわけですが
もうこれが
ほんと、どストライクだったんですよ
もともと
「空気を読む」などの「空気」に
個人的にすごく興味があって
「なかなか言語化できないけど絶対あるよなコレ!なんや!空気てなんや!」
って思ってた節はありました
『「空気」について考え続けているうちに、僕は「世間」との関係に出会いました。「空気」の正体と密接に関係があると考えるようになったのです。この本は、「空気」と「世間」の正体をなんとか突き止め、「空気」と「世間」に振り回されない方法を探るための本です。』
という本です
(本書「はじめに」より)
ものすごいざっくりした説明で
且つ真崎の解釈で本書に書かれていた事実がねじ曲がる可能性もありますが焦
簡単に内容をさらいます
「空気」と「世間」
の説明に入る前に
まずは
「世間」と「社会」
を比べることで
「世間とは?」
を認識する事から始まります
一番シンプルな説明は
世間:自分に関係にある世界
社会:自分に関係のない世界です
本書の例を参考にします
『電車の中でのマナーが非常に悪く、友人数人で乗り込んできた際に、他の乗客の迷惑を顧みず、かばんを空いた席に置いて友人の座る場所を確保する、ケバくて香水臭いおばさん集団』
を想い浮かべてほしいです
(関西の方は分かると思います)
(映画「阪急電車」を見れらた方も分かると思います)
(最後の記述は真崎が付け足した悪口です)
かばんを置いたおばさんは
別に他の乗客に対して
悪意があるわけではありません
でも
他の乗客からの非難の目も気にせず
その行動ができるのは
そのおばさんにとって
乗客は「社会」で
友人は「世間」だからです
乗客は「自分に関係のない世界」だから
非難されようが関係ないわけで
もし乗客の中に
例えば通学中の息子がいたら
おばさんにとって
そこにある「社会」が
一気に「世間」になります
おそらく鞄は置かないと思います
で
『この「世間」が流動化して、どこにでも現れるようになったのが「空気」なんだよ』らしいです
この辺も
しっかり読んでもらうと
電車で「おおぅ!」と叫ぶくらいには面白いのですが
「依存」に関する記事を書くにあたって
真崎が注目するのが「世間」です
多くが無宗教で
且つ歴史的側面から
「集団意識」
「仲間意識」
が強いとされる日本人は
特に
この「世間」に「依存」しやすい
というような内容がありました
「村八分」
という言葉を
社会で勉強したかと思います
要は「仲間外れ」ってことです
村という狭いコミュニティの中で
村民はそのコミュニティのルールに従い
互いに支え合って生活し
その一方で
ルールに背くなど
村の秩序を乱したりした場合
その村民は「村八分」の制裁を受けます
他の村民から「葬式の世話」「火事の消化」以外の支援をしてもらえなくなります
共同絶交とも言うらしいです
「世間」の特徴として
明示されているわけではないけど
共通のルール意識を持っていて
また
「差別的・排他的」な性質があります
差別的・排他的であることで
自分たちが同じ「世間」にいる
ということを認識できる感じだと思います
学校
職場
家
近所
バイト
所属団体
連携先
などなどなどなど
自分を取り巻く「世間」は
たくさんあります
自分に関係のある世界です
村と同じ考え方でいくなら
「世間」
というコミュニティを共有していると
明示的・暗黙的ルールを
意識的・無意識的に順守しながら
そこの「世間」にいる人たちと
サポートし合える関係が結べます
「世間」は
それぞれの人にとって
大きな支えとなり得るものです
且つ
日本人は無宗教が多いです
「幸せとはなにか?」
1年前、すごく考えていた事です
そんな折にマサさんという方と出会い
その方のプログラムを受講する中で
「幸せとは、存在そのものを認められることであり、無条件で愛されることである」
自分の中で
ひとつの結論が出ました
マサさんは牧師さんなので
初めて聖書の世界観を知ったのですが
永続的に変わらず
無条件で人を愛せるのは
「神」
という絶対の存在だけである
という事を教わりました
どんなに「神」のような人間がいても
人間である以上「絶対」ではなく
変わりうる「相対」の存在ということです
なので
「神」を信じる人は
「神」は自分を愛してくれていると知り
「神」に委ねることができる
らしいです
一方で
未だ真崎もそうなんですが
「信仰」の対象を持たない
無宗教の人間は
「存在を認めてくれる」
「無条件で愛してくれる」
これを、「世間」に求めます
自分に関係のある世界のひとに、です
真崎は
これが「依存」の根源だと思っています
「認められている」
「愛されている」
その実感がなくて
自分がいていいのか
存在していいのか分からないから
そう感じさせてくれる
ひと・集団・もの・環境・空間など
そこに「依存」していく
そこに「依存」させられていく
という現象が起きるのだと思います
「世間」に「依存」してしまうと
その「世間」なしで
生きていけなくなります
でもその「世間」は「相対」であり
確実なものを約束してはくれないです
(書くと長くなりますが、特に日本の中ではより強い存在感のあった「世間」という概念も、グローバル化・IT技術の進化などに伴う「個」の在り方の変化で、崩壊しつつあるということです)
「依存」はしんどいです
する方もされる方も
多分すごくしんどいです
「依存」は
結果的に
たくさんのものを失わせると思います
今まで見てきたのは
友達を失ったひと
恋人を失ったひと
健康を失ったひと
「生きる目的」を失ったひと
でした
自分の身近であればあるほど
その状態に陥っていく人を見るのは
こちらも、すごくつらかったです
「支え合う」は
互いを強めると思います
「依存し合う」
「依存を受け入れる」は
互いを弱めると思います
ちなみに
真崎は今、すごくいい状態です
「絶対」の存在を
未だ絶えず疑ってしまってるわりには
わりとずっと、すごくいい状態です
「愛されている」
「認められている」
「必要とされている」
開き直って言うなら
これらの実感をもっているからです
様々な場所で感じさせてもらっているからです
そう感じさせてくるものは
いつでも変わりうる可能性をはらんだ
「世間」の存在です
本来非常に不安定である
その感覚がなくなれば
今の「すごくいい状態」が
一瞬で崩れ去ってしまうことも
容易に想像できます
自分の中にある「恐怖」として
常に保管してあります
だから
「依存」は怖いし
この感覚に身を委ねる事が
非常に危険な行為であることも
すごく自覚しています
3.「依存」から脱却するにはこの流れのまま行って
「信仰」
と言ってしまえばそれまでなんですけど
信じきれない真崎からは
きちんとお勧めできないので
参考のひとつ
それでも「相対」に抗っていくという方法にはなっていくんですけど
『「空気」と「世間」』
第6章「あなたを支えるもの」
より
【ほんの少し強い「個人」になる】という言葉をお借りしようと思います
(もちろん「個人」では自分を支えきれないことは大前提ですが)
ここでの記述を
真崎なりに解釈して書くと
要は
「世間」にいると
その中での暗黙のルールを察知し
差別・排他されることを恐れるゆえに
「世間」の中の他人を気にした行動になる
ということがあると思います
順番に自己紹介している時に
最初の人が「名前・出身・ひと言」と言ったら
「これってずっとこの流れなの?」
という疑問をどこかで感じつつ
その後もずっと同じ流れが続く
的なあるあるです
就活でも見ました
これ、日本人特有らしいです
例えば欧米では
誰がなんと言おうが自分は自分
自分が言いたいことを話す
というのが普通らしいです
「ほんの少し強い」
というニュアンスは
こういうことだと思います
周りの「空気」を気にしすぎず
「個人」を発信していこう
という強さ、だと思っています
すごく些細なことかもしれないですが
苦手な人にとっては
大切な勇気なのかもしれないです
(真崎もすごく苦手な時があります)
真崎の中で
この
『ほんの少し強い「個人」になる』
というのは
ほんと抽象的だけどよく言われる
『「自分らしく」生きる』に繋がる
小さいけどすごく大きな事だと思います
自己の確立
その先にある自己への確信
総じて「自立」とするならば
これが
他への「依存」を
抑止しうるのかと思います
まだ本の中にはいろいろ
「世間」「空気」との付き合い方
脱却の仕方
的なものも書いてるので
読んで下さい(ステマ)
で
すごく抽象的だけど
すごく大切な
『ほんの少し強い「個人」』
『「個人」を発信する』
『自己確立』
『からの自己確信』
という真崎なりのオチに
少なからず共感して下さった方
「I wanna 自己確立」
的な感じになって下さった方
(株)SHINRI内定者の真崎なんで
やっぱり書いときます
『FACE』ってプログラム
是非来て下さい
(ステマ)(違うか)
もろにそこと関わってくる内容なので
この記事を読んで
「依存gkbr」なって
「自分らしい自分wktk」なった方は
待ってます
来週関西であります
あ
余談なんですけど
最近「Facebook」というSNSが
「世間」依存を
わりと顕著に現してくれている気がします
Facebookで
特に恋人に依存しているようにしか思えないような書き込みをしている方々
待ってます(悪口)(軽くやきもち)
真崎