せめて、真崎らしく。 -26ページ目

せめて、真崎らしく。

そんな感じです。



「生」とか「死」について書くので

苦手な方は
「←」押してスルーして下さい






先週の土曜日

おじいちゃんが亡くなった



朝9時頃にお父さんから電話がきて
「おじいちゃん、さっき、亡くなったから。」って


ちなみに
お父さんの、お父さん





薄情かもしれないけど
聞いた時別にびっくりしなかったし
溢れるような悲しさに襲われたわけでもなかった



去年の今頃くらいに倒れて
ICU運び込まれた時に

「もう持たない」

と医者に言われてから約1年




この1年間
お父さんも含めて家族全員
常に心の準備はしてて


それが、来た、って感じだった





帰っておじいちゃんと対面した時
おじいちゃんの左目が少し開いてて



どっかの誰かが言うには

「死んでもなお目が開いているのは、最後まで"誰か"に逢いたかったからだよ」




家族親戚一同
満場一致で


「死んだおばあちゃんだよね」


って





去年ICTに運び込まれた時
おじいちゃんは82歳

そこから1年間生きて
亡くなった時おじいちゃんは83歳




「わしは83歳まで生きて死ぬ」


おじいちゃんはずっと言い続けていて




お父さんに理由を聞くと


「死んだおばあちゃんが「あなたは83歳まで生きるわよ」って生前言ったらしくて、それからずっとそう言ってる。笑」


とのこと





どんだけーて

もうどんだけおばあちゃんのこと好きなのーていつも思ってた





おじいちゃんは
もうだいぶ前から認知症で

私の事が誰か分からなくなったのは
もうずいぶん前の事になる



若かりしおばあちゃんだと間違われて

床に伏しながら手を握られて

本気でプロポーズされること2回




「ご両親にも挨拶しに行きます」


って言われたけど
すごい斬新な三角関係
お父さんあなたの息子ですからーて


そして私の人生で初めて受けたプロポーズ
まさかの人違いっつー


あといっかい米兵にも間違われてる
間違え方に世代差感じる






話とんだけど



大好きなおばあちゃんの言葉を信じ
「83歳まで生きて死ぬ」って言ってたから



変な話


去年ICTにいた時は
まだ大丈夫って思ってたし

そこから生きて生きて
たぶん今年だと思ってた



7年前の七夕になくなったおばあちゃんと

たぶん今頃一緒にいると思う









今回書きたいのは、そこじゃなくて






そんなわけで



実家に帰ってきて
おじいちゃんと対面した時も
お通夜でもお葬式でも


私は泣かなかった
ただの一滴も


おじいちゃんとは仲良かったし
もちろん悲しかったけど


でも、泣かなかった









ただ


いっかいだけ、めっちゃ泣いた





お葬式が終わって
今から焼き場に向かうってなって


「故人様のお顔を見られるのは、今が最後の時になります。」


司会っぽい人がそう言って
みんなで献花持っておじいちゃん囲んで手合わせてた






そしたらその時




お父さんが

おじいちゃんの隣に立って



泣くでもなく

話しかけるでもなく




黙ったまま

じっとおじいちゃんの顔を見て

そっとおじいちゃんの顔さわって




じーっとしてた








その姿見た瞬間



ウッて急になにかが込み上げてきて

今まで全然流れなかった涙が
すごい勢いで目から流れ落ちてきた




「あ、これダメだ」


って思った






お父さんが
その時なにを感じていたのか
自分には分からないけど




ただ事実として


亡くなった親を

子どもがじっと見つめる構図がそこにはあって







考えてしまって


置きかえてしまって


涙が止まらなくなってしまった







多分今までの人生で

ただの一度も言ったことなくて
ただの一度も自覚したことなかったけど



自分は、親が大好きなのだと思った









「見つめる側」に行きたくない



考えてしまったし

考えただけで悲しすぎた








だけど、その一方で




それがたとえいつになろうと

「見つめる側」にいなきゃって思った







2か月前


仕事がつらかった
本当に行きたくなかった

でも逃げるのも怖かった
毎朝溜め息ばっかりついてた




んで

恥と非難を恐れずさらすなら



「事故ったら楽かな」


と思って毎朝自転車こいでた
毎朝ホームに立って電車見つめてた








「親を看取るのが子の役目だ」


なんてキレイな一般論は
正直どうでも良くて







ただ私は




私の親を

「見つめる側」にいなきゃいけないってすごく思った



私の親を

「見つめる側」に立たせちゃ絶対いけないってすごく思った








お父さんは

もう四捨五入したら還暦
2月に大病してから随分元気がない
とりあえず年末年始に温泉でも行こうかと誘ってるところ



お母さんは

相変わらずバイタリティMAXで
気付いたら有給とって外国行ってて
「やりたい事やりつくしたらアンタらに迷惑かけずさっさと逝く」みたいな事言ってる
年末年始はひとりでイタリア行くらしい






3兄弟で一番好き勝手して
親にも迷惑かけ通しな末っ子だけど



ちょっとは大人になったので



これからはもうちょい堂々と

親のこと大切にしようと思った








ってゆー




話を書いているそばから


「どうせ金ないんやろ」と
お金振り込んだとお母さんから連絡がくる



ほんと敵わない





真崎







※追記前に読んで下さった方※


すみません

この内容に関して
京大生に対する偏見がすごすぎる
との意見を頂戴しました

嫌な想いをさせた方がいたのでしたら
本当に申し訳ないです


文脈的にうまく伝えられないのですが
私自身がそういった強い偏見や恨みを抱いているという事はなく

ただ自分自身の出会いから
そういう思い込みを抱いてしまっていた
その自戒と今回の内容を絡めて書きたかったのです



かなり軽率な文章を書いてしまった事を
お詫び申し上げると共に

そういった文脈ではないことを
ご理解いただきながら読んでいただけると幸いです




*********************













日本の未来を担っていくであろう
素晴らしいリーダーたちを
一体どれだけ敵に回すのだろう



そんな事を覚悟の上で書きますが



「京大生男子」とは「ロジカルシンキングが大好物でプライド高めの変態」である


だと本気で思ってました




$せめて、真崎らしく。





大学生時代にいろんな活動した中で
京都大学の学生さんたち(特に男子の方が多かった)とご一緒する事もよくあったのですが



総じて変態は多かったです


変態がなにかと言われたら
とにかく変態としか言えないのですが
とりあえず変態ばっかりでした


男はみんな変態だ
なんて意見もありますが

その変態さが
京大クオリティな感じでした


(どっちかと言うと良い意味です)




残りの部分は
被害妄想込みの真崎の所感と思い込みです



総じて

「ちょっと苦手」

て感じでした
なんか難しいみたいな






ある知人と飲んでいる時に
なんかそういう感じの話になりました


年下の京大生男子と活動する中で
その方々が上記の感じに少しあてはまり
関わり方で少し苦労しているとのこと




んで真崎には
上記思い込みと苦手意識があるわけで


アルコールも入ってたこともあって
こんな軽率な発言したんですよね




「ほんま、「京大生男子」ってそうよなー( ̄∀ ̄)」










「おい真崎それは偏見やろ」




すかさずツッコまれました
(関大生男子)


謝りました
(立命生女子)


隣でポテト食べてました
(ゴリラ)






この会話自体は
スルッと終わりそうだったのですが


"偏見"

という言葉を聞いた時
自分がちょっと気になっていた事を
みんなに投げかけてみました



「時々思うんやけどさ…」






教育に関わる活動をしていた事から

教育に関わる志を持った人と
活動を共にしたり話をしたりする機会がよくありました



その中で

自分自身の意識も含めて
時々感じて違和感が




「それ、ほんま?」



でした







例えば

自分自身が持っていた意識の危うさは




家庭事情や経済事情などで
教育・学習の機会に恵まれない子



勉強が苦手
自己肯定感が低い
劣等感が強い
大人が信用できない
将来に希望が持てない
持ってても言えない




こうやって書いてみると
ロジックもクソもないですが


確かに

どっかでこんな風に思ってました
実際そういう子も見ました





というか



そういう子ってのが
自分が見ていた生徒でもあったので


その子への思い入れが強くなって


その子の姿をどこか一般化して
他の子に重ねていた節があった気がします






家庭面・学習面など
自分自身がしんどい思いをしてきた原体験を持った人


自分自身が子どもの時に
そういう子が周りに多かった人


自分で勉強する中で
教育系の問題意識を強く感じた人


支援活動やバイトなどを通して
いろんなものを抱えた子どもと接してきた人




いろんな思い
いろんな経験
いろんな出会い
いろんな知識
浮かんでくる顔





そんな素敵なものが

時々





目の前にいる人の姿を


どっかぼやけさせているんじゃないか






目の前にいる人は


本当にそこに「あてはまる」のか








「あの人は京大生男子だから、ロジカルシンキングが大好物でプライド高くて変態なんだ」


みたいな感じで

(改めて書くとこれひどい)






この子は家庭がこうだからこういうしんどさがあって~

塾に行けない劣等感があって~

勉強苦手だから自己肯定感低くて~





ちょっと極端すぎるけど
例えばこういう話が



本当にその子の姿を見て

というよりも





その人自身の経験と知識と感じてきた事を元につくられたフィルター越しに子どもを映して





そう感じることが

やっぱり時々ありました









【うじ虫】[名]

1.ハエの幼虫。一般には腐肉や汚物などに発生するものを対象としてそう呼んでいる。

2.立命館宇治高校から内部進学で立命館大学に入る学生の別名。内部進学同士で群れる、勉強ができない、PCだけやたら強い、うざい、などの特徴がある事から、外部生がそう呼んでいるらしい。




内部進学だからって


そんな風に思われるのも
そんな風に呼ばれるのも


すっげー嫌だったし

すっげー納得いきませんでした



(結局事実かは不明)






自分といういち個人から

いち段階抽象化されたフィルターや枠を通して自分を判断されるのは



真崎は結構嫌なタイプでした

( *´艸`)キャピッ







これからやっていく活動って
おおいにその危険性をはらんでいて

自分自身気を付けないと
知らん間にフィルターかけちゃう事もあると思うので




そんな時は




「それ、ほんま?」




って


自分自身に投げかけつつ

今隣にいて背筋鍛えている最中の京大生出身男子に内心懺悔しておきます




真崎




自分はよく泣く



すごく泣く

頻繁に泣く

泣きの大安売りかってぐらい泣く




「涙もろい」
「感受性が強い」
「涙腺が弱い」


各々の結果としての「泣く」は
おそらく少しずつニュアンスが違うけど
それぞれの項目にあてはまった「泣く」を自分はしていると思う




「涙腺が弱い」

に関しては
本当に困ったもので


全然泣きたくないのに
勝手に涙がこみ上げてきて
止めようと思えば思うほど溢れてきて


「ちゃうんですこれほんまにちゃうんです泣いてるんじゃないんです」


とボロボロ泣きながら必死に弁解

周りもちょっとどうしよてなってる
「いやどう見ても泣いてるーえー」
みたいになってる




てな事


たぶん涙腺もろい人だったら
絶対この道通ってきたはず
絶対このもどかしさに悶絶してきたはず
















去年いっしょに活動してた
人間と鹿の半妖$せめて、真崎らしく。みたいな男がいるんですけど


つい先日飲んだ時に
こんな本を貸してくれたのですよ




$せめて、真崎らしく。




『涙の理由~人はなぜ涙を流すのか』



もう題名からして
真崎のどストライク





しーかーもー
でーすーよー





茂木健一郎

×

重松清






茂木健一郎

×

重松清






鹿グッジョブ


そんなわけで
表紙見た時からぐいーぐい引きこまれた状態で
この本を読みました









いやー


涙、深っ




涙ひとつでこんだけ語れますかっ
3年かけて5回のセッションするぐらい語れますかっ




めちゃくちゃ深かった

そんでめちゃくちゃ面白かった






もうアレ

「はじめに」

の時点からうおおおってなってた





"泣くことを「期待」して小説を読む時代―なのか、いまは。"




この重松さんの言葉

重松さんの小説で
何回泣いたか分からん身としては
なんとなくドキッとする言葉




「泣ける小説」

「涙なしでは読めない」

「全米が涙した感動の超大作」



そんな言葉はとっくに蔓延していて
今更違和感なんて覚えなかったけど



「その日のまえに」という小説

"泣ける小説"とジャンル分けされる結果となった小説を書いた重松さん的には



「読者が「泣いた」ことそのものではなく、むしろそれを伝えるときの「泣けた」「泣ける」という言葉にひっかかりを感じてしまうのだ。」



「「泣ける」というのは可能を示す言い方である。それがなぜ、読後の感想として出てくるのか。~ 読後の感想としての「泣ける」かどうかが、さらに転じて、作品を読む前の「泣ける」かどうか、つまり「期待」へと形を変えてしまったのではないか。」





「ほんとうにそうなのだとすれば、(中略)じつは、率直に言って、本当に申し訳ないとは思うけれども、ちょっと背筋がぞっとしてしまうのだ。」










この本を読みながら

自身の「泣く」を振り返った



わりと昔まで振り返った

過去10年分ぐらい振り返った







当たり前だけど


いろんな「泣く」があったと思う





ただ


どうにかこうにか
この「泣く」をカテゴライズした時に




どうにも変な「泣く」がある





言い換えれば





なんとも不純な「泣く」がある







そんな事にふと気付く










ひとつは強迫観念

「泣かなくちゃ」からくるもの





例えば

中3の時、同級生が事故で死んだ




彼が死んだ次の日


教室でみんなが泣いてた
まじで?ってぐらい泣いてた
先生もすげー泣いてた
お弁当食べない子とかいた
お葬式の時もみんな泣いてた



自分も泣いた


彼が死んだ次の日も泣いたし
お葬式のときも泣いた





実際、相当悲しかった





「じゃあ、悲しかったから泣いた?」




と言われたら、違う





悲しかったのはすげー事実




「悲しい=泣く」



そんな単純な等式

自分は成り立たないと思う










じゃあ、なんで泣いた?







「周りも泣いてたから、なんか、自分も泣かなくちゃいけなかった」









そんな「泣く」だったと思う


なんかびっくりするぐらい覚えてる





後日事故現場の近く
自転車で走りながらチラっと見たら
お花とかお菓子がいっぱいお供えされていて



むしろその時の方が


すごいぎゅううううううって
涙腺も含めてぎゅうううううって


なった










嬉しい涙もあった


例えば

自分が入れなかった選抜メンバーが
吹奏楽コンクールで金賞取った時

選抜メンバーが泣いてる中

自分も泣いた






や、これ



正直別に

そんなに嬉しくなかったわーて






でも周りの「仲間」は泣いてる
泣く空気が蔓延してる


泣かないなんて事は

なんか
ちょっとだけ許されない感じ





違うバンドが金賞とって
自分が「泣けた」とき

同じくそのバンドに入れなかった
同級生の部員が自分の隣にいて



「私別に泣けへんわー違うバンドやしー別に泣けへんわー」




なんか、やたら言ってた


誰に対してなのか分からんけど
でも誰かに言い訳してるみたいだった







強迫観念の次は

たぶん自己陶酔の「泣く」




「ここで泣ける自分(恍惚)」


みたいな感じ


映画みた時とか
卒業式の時とか



もちろんそれだけじゃないけど

でもそうやって泣ける自分が
なんかちょっとだけ良く見えてる気がしちゃうやつ




え、ないかな









『涙自体がポピュラー的な評価で使われてしまったのではないか』

『少し涙がなめられてきちゃった』






ていう重松さんの言葉

確かにーてなった






勝ったから負けたから泣ける

親子が引き裂かれて泣ける

愛する人が亡くなって泣ける

〇〇だから泣ける




「一定の条件が満たされたら人は泣く」


みたいな単純な話ではないはずで




泣こうが泣くまいが
そこで発生した感情は

その人が経験してきた事の記憶や感覚
誰ともぴったり被りようもないもんで



なのに


「泣く」という行為が
なんか良いことみたいな風潮があって

安易な「泣かせる」作品と
安易に「泣けちゃう」し「泣ける」と評価しちゃう私たち大衆
これこそ「泣く」の大安売り






そういう構図って


なんか怖いよなあ







みたいな話も本書にあった

だいぶ真崎解釈なってるけど










『自分だけの涙』




って言葉が出てきて


もうこれが
最上級のどストライク





「清原選手が、西武ライオンズ時代に、日本シリーズでジャイアンツと戦った。あと一人でジャイアンツに勝って優勝が決まるというときに、一塁の守備につきながら号泣していた」




この時の涙がすごくいいと
茂木さんも重松さんも言う




彼にしか流せない涙で


優勝に対する涙ではなく
ジャイアンツ時代からの長い因縁の結果生まれた涙で


一生の中で一回しか流せない
再現性のない涙





茂木さんて脳科学者だけど

こういう一回性の涙って
もう二度と同じの流せないから
その瞬間の脳の研究ってできないんだって





「一回性の涙は、ある意味では研究もできないし、本質も把握できない。だからこそ皆の注意は、繰り返し可能な安易な涙に向かう。」


「でも、人生で、本当に大事なのは、ただ一度だけしかパズルがはまらないかもしれない涙のほうですよね。」








こんな涙を
24年の人生のどっかで流したかなあ


と思うと

流してない気の方が大きい
俄然大きい






他人の目
周りの空気
自分はどう映るのかなあ



どんなに少しでも
それらに対する意識が生まれた瞬間




そこで出る涙って


どっかよそ用の涙








「そんな、「自分だけの涙」に出会えるように、一所懸命生きたいなあ」





みたいな


本に書いてたか
自分が思ったのか分からんが




なんか、そんな感じ


素敵やなあと思いました



高ぶるぅ









そんな感じで
この本さっそく2周目入りました

おすすめっ
オススメッ



旅のお供に引っさげて

今晩からプチ故郷の横浜へ向かいます




真崎