せめて、真崎らしく。 -19ページ目

せめて、真崎らしく。

そんな感じです。



「「感じること」に責任を持つのは誰か」


この問いをくれたのは
いつも自分が折れそうになった時に
なんとなく連絡したくなる友人



深っ

深いわっ



ツッコミたくなる感じ





でも、今なら少し分かりそう

友人がくれたこの問いの意味



この1年間

2回仕事を変えて
つまり3つの環境に身を置いて

いづれの環境においても
無意識無自覚のうちに
すべてを「他人のせい」にした



「できない私が悪い」
「ぜんぶ自分の言い訳」
「ここに感情を持ち込んではいけない」
「仕事ってこういうものだから」
「会社ってこういうものだから」
「組織ってこういうものだから」
「社会ってこういうとこだから」
「お給料もらってやってる義務だから」
「やらなければいけないことなのだから」

「できないことは私が悪い」
「動けないことは私が悪い」
「気持ちがついてこないのは私が悪い」

「すべて悪いのは私なんだ」




この1年の間に
上記の思考が脳みそ何周したのだろう


一見「自責」なこの思考が

どうしようもない程
実は「他責」だと知らされた
その衝撃たるや




今のうちにまとめておきたい

「「感じること」に責任を持つのは誰か」



すごく大切なことだと思うので

起こった事実と
感じた気持ちを交えながら
きちんとブログに記録しておこうと思う


①って書いたものの
どこで終わるか分からない


まあ、いいや

とりあえずメモ


(続く)


真崎



ずいーぶん、前に見た光景



お母さま数人が話していらっしゃるの


年齢や子どもの学年は違えど
子どもの事である共通の悩みを抱えているお母さま数人
ものすごく悩んでいらっしゃる様子


「どうやったら子どもが変わるか」

とかじゃなくて


「子どものために何ができるのか」

を、すごく深刻そうに話していらっしゃる


ちょっとしたニュアンスの違いだけど




なにも口を挟めないまま傍観しながら

「親、すげー」

って思ってた記憶がある


そこで話される内容が良い悪いとかじゃなく
そんなに子どものこと考えてはるんやーて
そしてそんなに悩んではるんやーて

率直にそう思ったん




そこにいた
ある"支援者"の方の言葉


聞いたときから微かな違和感として
自分の中に残り続けていた言葉




「親から子どもへ「無条件の愛」を注いであげられるといいですよね^^」




それを聞いたお母さま方

泣きながらコクコク頷いている







酷じゃね?


分かんないけど




なんやかんや、よく聞くの


「無条件の愛」とか

「無条件承認」とか


美しいけどイマイチ実態のないソレ



あったらベストなんだろけど
もしかしたら注げてる系ペアレンツもいるかもだけど



なんだろ


近しいものはあったとしても
私はそんなの無理だと思ってる
人間だもの(©みつを)



ネガティブな意味とかじゃなくて

その"支援者"の言葉が
真崎のひねくれフィルター通過時に


「それが、親の義務ですよ」


に聞こえてしまって




酷じゃね?


て思った次第



「親は神になれ」

って言ってるよなもんじゃね






別件



母を、とても尊敬しておりまして




この世で最後まで
自分の味方でいてくれる存在がいるなら
それは母だと思っておりまして




それを想い始めたのは23歳夏で


それまでは嫌いというか脅威的な存在で




叩かれた記憶

怒鳴られた記憶

八つ当たりされた記憶

暴言吐かれた記憶

「出来の悪い娘や」と言われた記憶

目の前で離婚騒動の記憶




いろんな記憶が蓄積されて
勝手に怯えて実は勝手に恨んでた




でも、今は、なんか違う



それら全部ひっくるめて


母に感謝して
母を尊敬して
母を信頼して


ってゆう

そんな気持ちが湧いてくるなんて
正直思いもしなかった





「無条件の愛」とか

「無条件承認」とか


個人的には無理だと思ってるし
なんか香ってくる"親の義務"的ニオイはすげーアンチだし
それ言ってるのは所詮無責任な他人だし



そんな大それたことじゃなくても
時にすっぽり受け入れられることとか

かと思えば
時に「んもうまじ無理」とかなることとか



そういう

なんかもっとこう
人間っぽいとこ、というか

完璧なんて胡散臭いものじゃなくて
もっと、やっぱこう、人間っぽいというか


ほんと上手く言えないけど


そしてこんなの言ったら
母が横浜殴り込みにくるかもだけど
自分の感覚として




信頼や尊敬

私が母に対して抱く念は



たぶん


「無条件の愛」


とやら出身じゃない

気が、する





どうなんでしょ




ってゆう

あくまで子の戯れ言でした


真崎



24年間生きてきて
いろんなことを経験してきたけれど

バレンタインに足湯
生まれて初めて
いろいろ記念日だった



んまー、雪

もうね、雪



10年ぶり?
14年ぶり?
40年ぶり?

よく分からんけど
関東ではなんぞご無沙汰な大雪が
先週突如やってきたと思ったら
バレンタインにまさかの再来で
さらに水曜日にまた来るとか言ってる

もうお腹いっぱい
というかブーツが水でいっぱい





でよ



「いつの日から雪を喜べなくなったのだろうか…」


Twitterとかで拡散されてた
なんか共感呼びそうな感じがぷんぷんするこのフレーズ


雪を見てはしゃいでいた
あの頃の気持ちは…

的な、大人の憂いシリーズ



なんかねー
もうねー



こういう書き込み見る度に
とてつもなく物申したい




なに憂いてんのーて

つーかそれなに憂いなのーて

その憂いいるのーて

やばい「憂」がゲシュタルト崩壊してきた




「大人」だの「子ども」だので
カテゴライズして一般化してこーゆーもんだっつー話は嫌いだけど

憂いてる人たちいるし
あえて分けて書いてみる




歳を重ねれば「初めて」は減るわ
感じるままに感情を出さずに空気と理性で抑制する力もつくわ
抑制してしまうストッパーも装備されるわ



重ねてるんだから、仕方なくね?
って思ったりする




生きるほどに
たくさんの出会いと経験と感情に出会う


嬉しいことも
悲しいことも
楽しいことも
悔しいことも
腹立だしいことも
人と繋がる喜びも
人がいない虚無感も
人を傷つける苦しさも
傷つけられたと叫び散らす苦しさも
生きて走り続けたい活力も
いっそ消え去ってしまいたい衝動も


たった24年の人生だけど
しっかり出会ってきたわけで



子どもの頃に感動できたこと
子どもの頃に言えたこと
子どもの頃に感じたこと


大人になって感動できなくなったり
大人になって言えなくなったり
大人になって感じなくなったり



んなもん、あるっしょ

って感じで




「大人ににっても「初めて」にはたくさん出逢える」とか「大人だって子どもみたいな人もいる」だとか

その通りだけど
今回書きたいのはそっちじゃなくて




なんかさ


子どもの頃には泣けなかったけど
今「フランダースの犬」の最終回見たら号泣しちゃうの



雪ん中教会来て
ずっと見たかった絵を見て
そこにパトラッシュが来て
「なんだかとても眠いんだ」で
天使が降りてきて


「ふーん」

て感じで涙腺カラッカラだったけど



今は無理

なんの涙か分からんが
心が反応して、無理


いろんな歌に共感するようになった
歌詞やメロディーから受け取るものが増えた

映画だって小説だってそう

誰かの表現や芸術は
子どもの頃に見たり聞いたりした時より
今の方がずっとずっと楽しめてる



今すごくしたいのが

中学ん時話題になって読んでみたけどさっぱり良さが分からなかった「蛇にピアス」と「蹴りたい背中」を読むこと


13歳の自分は受け取れなかったなにかを
24歳の自分の感性はなんかしら拾ってくれんじゃないかって


その点に関してのみ
自分に対して絶大な信頼を持ってる


それは多少なりとも
なにかを重ねてきたからだと思う





雪を見て喜ぶ子どもの感性と姿は
純粋に人の心を癒す力があると思うし


それとは、また別で


いろいろ重ねて
いろいろ受け取るようになった大人の感性は


めんどくさいこともあるけど
それはそれで、人に優しくできたり、それこそ誰かの心を癒す力を持ってるって思うんだ



めんどくさいけど

んもう超絶めんどくさいけど




でもぶっちゃけ

私は昔よりも今の自分の感性の方が気に入ってる




「子どもの頃は」って憂いてる

そんな複雑な大人ごころを
どっかの誰かのためになんかしら還元できたら


それは大人のみなさんの

すげー武器になると思ってる




なんか、上手く書けないけど


「子ども純粋、大人残念」的な投稿が
千も万もリツイートされてる状況が気持ち悪かったので
衝動的に書きました




まあ24歳つっても 
24年生きたってだけでまだまだ中身はガキ小娘だけど


雪見て喜べないことが
一体なんだってんだ、って感じです


(家の横の駐車場に積もった新雪にダイブしたけど)


真崎