「天国までの百マイル」 浅田次郎 | muchaholyのブログ

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通勤のバスの中、仕事の昼休憩、寝る前のちょっとした時間が私の読書タイムとなってます。

本の感想まで書き留めておく時間はなかなかないのですけど、これを読んで覚えておきたいと思ったので少しだけ書きます。

 

主人公は事業に失敗して妻子とも別れ、妻子への仕送りのためせ生活する金もなく、好きでもない水商売の女のところで養ってもらっている40男の安男。

 

女で一つで4人の子どもを育ててくれた母が思い心臓病になり、入院している病院の心臓外科の権威からは手術は難しいと宣告されている。

主治医である内科医から、外房の鴨浦にある病院には天才外科医がいてそこであれば手術ができるかも知れないと聞かされる。

 

エリート、またはエリートの妻である兄姉は揃って、そんな危険な手術は受けさせないほうがいいという中、安男だけは母を助けるのだと言って、借りたバンに布団をのせて母をその病院まで連れて行こうとする話。

 

無事に病院へたどり着いたところでの安男は考える。

なぜ兄たちは母を自分のように何がなんでも救いたいと思わないのか、そして、自分も事業を失敗しておらず成功した時であれば兄たちのように、ここまでの気持にならなかったともう。それはなぜなのだろう。

 

幻の父は答えます。

それでいい。親を面倒だと思うくらい自立していたのだ。

お母さんはよくわかっていた。「やっとみんな一人前になりました」って言っていた。それでいい。子どもに厄介になりたいんなんて思わないよ、親は。

 

安男はさらに尋ねます。

おふくろがどう思っていたなんてどうでもいい、そうじゃなくて、どうして豊かだったころの俺はおふくろのことを考えなくて、貧乏しているにっちもさっちもいかなくなったいま・・・・

 

父はいいます。

それが貧乏の有難さというやつさ。金でかえないものがあるってことは貧乏人はよく知っている

 

安男は考えます。

おふくろは俺に金持ちになれって言い続けてきた。それは、金持ちになっておふくろのことを忘れろっていうことなのか・・・・・。

 

私は、幸せなことに母が元気で存命で、子どもである気持ちも親である気持ちにもなることができます。

 

子どもには親のことなんて考える必要もないほど幸せでいて欲しいというのが親の気持なんだろうか?と考えてしまいました。

 

私はそこまでの境地には達していないです。

さっきもしょーもないことで子どもにラインで連絡してしまったばかりですし。めんどくせ~~と思われているのかな。

 

ただ、それは、私が今のところ精神的にも体力的にも経済的にも元気で子どもに心配かけることがないから気軽に声をかけることができるのでしょうか。

私のことをかまってね、というより、母は元気なのでほっておいていいよ、という無意識の気持も入っていたとか???

これ読むと娘からは、違うやろ、かまってちゃんやろって言われそうですけどね。

 

でもま、子どもには親のことを忘れちゃうくらい自分の生活を楽しんで欲しいし、親のことはほっておいてもいいんだと思ってもらえるくらい元気に過ごしていきたいと思います。

 

子としても私の気持は、まだまだ母に甘えています。

 

父が亡くなってから週に1回は母のところに顔を出していているのですが、母からは「ありがとう」と言われながらも「忙しいのに来なくていいよ」と言われます。

しかし、今週は忙しいから行けないよって言っていたにもかかわらず、そのことを忘れているときは数日して電話がかかってきて、「来ないから熱でも出したのかと思って、心配して返って電話できんやった」と言われます。

 

心配してくれる気持ちは嬉しいけど、安男が元気なときのように母に対して「めんどくせ~~~」って思ったりもするのです。

母に対してめんどくせ~~と思えるのは、母が今元気だからなので、私は幸せ者ですね。

母に何かあれば忘れることはできないと思うので、そこはこの小説とは違う気がしました。

 

浅田次郎さんの小説は、なにやら私の琴線に触れる言葉が多いようです。

「蒼穹の昴」以降よく読んでますが、どの場面だったかはっきり覚えていないんですけど「椿山課長の七日間」夜寝る前に読んでいて布団の中で号泣しました。

 

布団の中でこんなに泣いたの吉本ばななの「キッチン」以来だなと思ったのは覚えているんですけど、どんな場面だったか全く思いだせない自分が情けない・・・・。「椿山課長の七日間」だったかも怪しいかも?

書いていないとどんどん忘れる歳になりました。はぁ。