おじちゃん

 

人はみんな元気な時「コロッと死にたい。その時が来たら何にもしないでくれ」と往々にして言うものです。

しかし土壇場になると、そうはいきませんね。

「あなたガンです。余命半年ですね」と、医者に簡単に言われてしまう時代です。

「ガンになったら、宣告された余命のうちにいろいろ片付けて、きれいに死ぬんだ」

そう言っていても、いざ宣告されると

「ホントに半年ですか?何とか治療の方法はありませんか?」と、抗がん剤治療を受けたりします。

死ぬのは怖いです。死を突き付けられた時の恐怖を元気な時は判らないものです。

おじちゃんは苦しい思いを沢山して、この治療をすれば生きられる。しなければ死ぬ。そいう時が何度もありました。

最後に入院した時、意識不明の状態から目が覚めて、私の顔を見て言いましたね。

「もういい。もうがんばれない」

その時のことをよく覚えています。

もう、「何言ってんの!またがんばろう」とは言えませんでした。

実際、その時おじちゃんが意識を回復したのは奇跡的でした。

人は死ぬ前に、ぐっと良くなることがあります。

私はおじちゃんが会いたいという人をみんな呼びました。

そしてお医者さんに呼ばれた私は最終決断を迫られました。

「おじさんはもう長くありません。透析の機械が回転していることが不思議です。

あなたの家から病院までは片道3時間です。あなたや他の家族が臨終に間に合う可能性は無きに等しいです。

その場合どうしますか?」

どうするもこうするも、命の火が消えたらそれまでと思っていた私は、お医者さんの言っている意味が判りませんでした。

「今は、最期をどうしても看取りたい人が多いのです。

だから、我々はその時を、みなさんが集まるまで伸ばすことがあるのです」

お医者さんの言うことが理解できませんでした。

「もう亡くなっているのに、無理やり心臓を動かすのですか?」

「そうです。みなさんがお揃いになるまで、私たちは人工呼吸を続けて、心臓を動かすのです」

「先生、それは先生方の手でされるのでしょうか?

もう生き返らないと判っていても、生きている家族のためにして、亡くなっている体はどうなるのでしょう」

「ハイ、私たちが心臓マッサージをして、胸を押し続けます。

そうすると、もう骨はもろくなっていますから、肋骨が折れて臓器に刺さることもあります」

「それでは、生きている者のエゴのためにするんですね」

「そうですね。この人工呼吸はご本人に対しては申し訳ないだけです」

「では先生、私たちが居なくとも、鼓動が止まった時を臨終の時間にしてください。

決して、生き返る見込みのない人工呼吸などはしないでください。

おじは親からもらった体を傷つけることを何より嫌がっていました。

これまで私はおじに、二度体を傷つけるように説得しました。

一度は指の切断。二度目は透析を受けるためのシャントの手術でした。

三度目はもう生き返らないのであれば、何もしないでください」

人の死の決断をすることは、容易なことではありません。

おじちゃんは私に「もうがんばれない」と言いました。

先生ももう最後ですと言っています。

それでも、私はおじちゃんの死の選択を「私が」したのです。

私はおじちゃんの子どもではありません。兄弟でもありません。甥の娘です。

血縁としては何の義務も責任も決定権もありません。

病院も担当医も、看護婦も、法律上誰に尋ねるべきかみんな知っていました。

しかし、病院の判断は「患者が望む判断ができるのは私」という見解でした。

それはとてもありがたく、そして一番悲しいことでもありました。

誰がどんな判断を下すかは、実際見てみなければわかりません。

私はおじちゃんが望む判断をしたと思っています。

しかし同時に、私の中には逃げたい自分もいました。

法的に私には決定権がないと言われたら、私は「おじちゃんの死の決断をしなくてよい」のです。

おじちゃんが望むようにするために、私が決断するのが良いとわかっていても、

そして、今でも、

「私に決定権をゆだねられなかったら楽だったのに」と思わずにはいられません。

それほど、人の死を決めることは重いのです。

 

私の周りも、だんだんと親兄弟を見送る人が増えてきました。

「延命治療しないって言ってたのにするっていうのよ」と、言う人。

「母に限ってありえないんだけど~」と現実を受け入れられない人。

そんなみんなに私が言うことは「親兄弟が死にそうになって、冷静でいられる人はいないよ。

取り乱していい。泣いていい。そして、みんな死にたくないし、死んでほしくない。

それぞれが『死にたくないし、死んでほしくない』と言うことを忘れないで。みんなの意見を聞いてみて。

答えはみんなの話し合いの中で見つかるはずだから」

一人の人が決断するのは関係者みんなが、何かしらの苦しみをもってしまうことがあります。

みんなで決められれば、その負担が無くなる可能性が高いです。

 

おじちゃん、私はどうなるんでしょうね。

おじちゃんみたいに「がんばれるか、がんばれないか」をちゃんと伝えらると良いなと思います。

 

死にたくもあり、死にたくもなしのとりあえず当面死にそうにない孫より