(ターカ)طاقة

コロナで神頼みは日本だけでなくエジプトも同じ。
もっともイスラーム教の国なので、日本のようにアマビエさまが流行ったりするような現象は起きないし、大ぴらにおまじないをしたりはしない。
古代からの神々の力やピラミッドパワーで、コロナがなくなると信じる観光客がきたらいいなと願っているエジプト観光業の人は少なくない。
ファラオニック・パワーはアラビア語でターカ・ファラオネーヤ。
「古代エジプトは永遠に我々を食わせてくれる」というエジプト人の友達の言い草に、言葉を失った。
ピラミッドは永久に滅びず、お金を生むと信じて疑わないのだ。
大事に保存し、環境を整えなければ、形あるものはいつか滅びる。
もっともエジプト人が純粋に「ピラミッドは永久に壊れない」と信じている「パワー」も、ピラミッドを維持させている一因なのかもしれない。これぞ神のみぞ知る。
昨今エジプト人も瞑想したりヨガをやったりしている。アラブの春以降、若者は絶望し神を否定するものも出てきた。(写真はファラオニック・パワーの瞑想ルーム)
新興宗教などは国の圧力もあり台頭することはないが、目に見えないパワーやエネルギーを、イスラームよりも信じる者が増える世の中が来るかもしれない。

太陽神の国、エジプトでは強い太陽がさんさんと輝いている。これを利用しない手はないと思うが、どちらかといえば風力発電の方が歴史があり、太陽光発電はなかなか進んでいなかった。
最近やっと普及してきたようだ。ターカ・シャムセイヤ(太陽光発電)という言葉を耳にするようになった。
もっといろんなところで使われるようになるといいと思う。

なんにしても、人々が未来を信じるエネルギーをもって、コロナ問題に打ち勝ってもらいたいものだ。
気の力は大きいと思う。[a]


كحول (クフール)

顔にはマスク、手には消毒液のミニボトルを持って歩くのが定番になったエジプト。
買い物したお釣などにもシューッとふきかけたりしてる。
クフールはアルコールの意味。
イスラームの国でアルコール?と思われる方もいるだろうが、問題とされているのはビールなどのアルコール飲料。医療などで使うことは問題ない。
スーパーなどの大型店では入り口の警備員や店員に検温、マスクをちゃんと鼻まで覆ってつけることや手を消毒してから入店するように誘導される。
飲食店では入店時、メニューを見たあと、食事が運ばれてきた時と、何度も消毒液を店員が吹きかけてくる店もある。
大型の店や駅、バスなどの車両の消毒も定期的にしている。ジャブジャブかけるように消毒しているのを見ると「かければいいというものでもないのに」と思う。
大型スーパーなどでは、電話ボックスサイズの通過式ゲートがあり、通過すると上から消毒液が自動噴射されるタイプもある。
問題はエジプト人はあまり構わないことである。やたらめったら消毒させたがり、レストランでは入店したところ、席に座って、注文して、注文品が運ばれてきたところ、会計前、会計後と、店員と接触するたびに「シュッ
」と吹きかけてくる。
また客の持ち物を気にかけてくれることもなく、革製のバックだろうが、色落ちしやすいシルクだろうが構わず「シュッ」と吹きかけてくる。
まだまだ観光客が戻ってくるような状況にないが、神経質な日本人観光客が戻ってきても、この消毒体制では、ガイドは神経使うだろう。
マスク同様早く懐かしくなってもらいたいものである。[a]


كمامة (キマーマ)

毎日コロナコロナで、世界が疲弊している。
毎日の感染者数が1000を下回らない(2020/6/8)エジプトでは、夜間外出禁止令や、公官庁や大型の店舗、銀行などではマスクの着用が義務づけられている。
長年エジプト人を見ていて、人々がマスクをしているのを見るのは、実に2011年の革命以来だ。

2011年の革命から2013年の軍が政権を取り戻すまでの間は、催涙弾がデモ隊に投げられたりして、
この時はマスクに縁のなかった人々がマスクをした。
とはいえ、それはカイロの地下鉄利用者が主であった。
このたびはエジプト全土でマスクをしている。
当時マスクは1ポンド(約20円)で、「マスク1ポンド!」と、行き交う人の間で物売りが売っていた。
それまで、日本人観光客が、エジプトの砂埃や排気ガスに閉口してマスクをしているのを見ると、
クスクス笑いながら「やーね!あの中国人テロリストみたい!」などと通りすがりにこちらが判らないと思って、
アラビア語で言うのをよく耳にした。
そんなエジプト人がマスクをしているのを見て仰天したものだ。
そして、このマスクはいったいどこからやってきたのだ?と不思議に思った。

このたびのコロナ騒ぎで、エジプトもマスク必須になった。
エジプトらしいマスクエピソードが日々耳に入る。
政府の商業用布マスク製造にあたり、厳しいガイドラインが設けられている。
コットニールというエジプトコットンブランドも第一弾は政府の検品ではねられたために店頭販売はできなかった。
町中の物売りが「コットニールのマスク安く売るよ」と声をかけてくる。
まさかとは思うが、この不良品が闇で売られていてもおかしくはあるまい。
ゾッとする話は、裁判所の前で「貸しマスク屋」が出ているという。
裁判所に入るためにはマスクが必須だが、忘れてきた人に入り口でマスクを有料で貸し、回収する。
また忘れてきた人がいると貸すのを繰り返しているという。
日本人にとって家族がつけたマスクは、コロナ云々にかかわらず身につけたくないものだ。
もともとエジプトでは、誰が飲んだか判らないコップに口をつけて水を飲むのも抵抗がない人が多い。
タクシーに乗って運転手に「水を飲ませてくれ」と言われることがる。
持っているペットボトルの水を一口飲ませてくれと言うのである。
いっそペットボトルをあげるならともかく、どこの誰とも知れない運転手が口をつけた水など、おぞましくて飲めないのが日本人である。
こういう環境ではコロナ様が猛威を振るってもおかしくない。

家族、同性の友だちに会ったらハグして、両方の頬に接吻するのがご挨拶の国で、
人に触れてはいけないというのは強烈なストレスとなっている。
「あなたはコロナ持ってない!」と盲目的な信じる心で愛しい人の頬に接吻するエジプト人たち。
そしてその結果は毎日「本日の感染者数1500」などという数字となって表れている。
さすがのエジプト人もこれはえらいこっちゃと、マスクをするようになった。
貸しマスクが現れる国である。
自分のマスクはいったい何日使って洗っていないのかが気になるところである。
不織布のマスクはゴムが切れるまで使っていると思われる。
布マスクやいかに…
不織布のマスクは2ポンドから5ポンドが相場で、庶民には高い。
一番良く見る黒い布マスクは10ポンドで売られている。
かわいい生地のマスクもときどき見かける。
さて気温40℃越えの日もあるエジプトで、マスク生活にどこまで耐えられるだろうか。
湾岸の女性たちがしている目だけ出して、顔の前に布を垂らしている二カーブが
マスクよりも楽なのではないかと思った。
エジプト人の友だちに話したところ、同じことを考えたという。
コロナの間だけやって、終わったらやめると宗教的にどうなんだろうと考えてしまったという。
教義的に問題なくても近所の人にいい加減な信仰心の持ち主だと思われる気がするとのことだった。
日本の冷感マスクを恨めしく思うカイロの夏になりそうである。[a]




拝啓、父上様

 

さて、私はこのところミルクのみ人形です。

食べてもすぐ出てしまいます。

最初のうち「これはいい!どんどん痩せる」と喜んでいましたが、3週間も続くと、さすがに体力が落ちてきます。

ムシムシ暑くて、熱帯夜で眠りも浅いです。

そして、痩せるどころかどんどん肥っています。

下着がきつくて、汗疹ができます。

過敏性腸炎です。食べたものが体にとどまらないので、死なないように体が必死に脂肪を蓄えようと頑張っているようです。

やれやれ、喜んでいる場合ではありません。

過敏性腸炎の原因はストレスなので、悩まないで心を開放して穏やかに暮らせば治ります…との事。

そうですか。

ちなみに過敏性腸炎、薬も効きません。

仕事に行くのにお腹の薬を飲んでは見たものの、気持ちが悪くなってゼイゼイしました。

元々脂肪燃焼力がないので、脂肪を燃焼させるキノコ類、海藻類、豆類をたくさん食べていましたが、

これらは食べてはいけません。

おかゆとお白湯にじゃが芋がよろしいとの事です。

体感温度は暑くて、大汗かいています。

しかし体を触ると、死体か?と思う冷たさです。

明け方、汗びっしょりが気持ち悪くて目が覚めます。そして自分の体を触って、あまりの冷たさに仰天します。

最も私は死にゆく人の体を触ったことがあるし、死んでしまった体もたくさん触っていますから、

自分の冷たさがそれほど危機に瀕しているわけではないことは判りますが、

起き抜け、ぼんやりと汗だくで「暑い」と思っているのに、体を触って冷たいのは、何度触っても驚きます。

私はいったい生きたいのか?死にたいのか?

私にとって初めての死の体験は、父上です。

父上にどうしたらまた会えるかな?どうしたら死んでも一緒にいられるのかな?

ミイラやはく製、死後の世界。

私が死んだら、すぐ会えるのかな?どうやって死んだらいいか。

勉強した結果、今私は死者の国に埋没。

そう、ずっと父上にまた会うにはどうしたらいいかの人生です。

結論は寿命で死ぬしかないんですけどね。

さて、死なないなら、適当にミルクのみ人形になっちゃうのはやめてほしいんですけどね。私の体さん!

ついた脂肪を落とすのは大変だから。

ヨガ教室行ったり、泳いだり。

色々やって疲れても、頭は空っぽにならないし、

食べたものは出てっちゃうし。

脂肪は溜まって、死亡しない。

笑ってしまわなくては!

笑う門には福来る!

小さいころから早く大人になりたかった。

大人になって、年取って、そしたら寿命が来るでしょう。

浦島太郎がうらやましい。

死ぬのは怖い。死にたくない。

でも、大好きだった人たちに早く会いたい。

古代のファラオたちのように、死後の準備でもしようかしらね。

そうしたら落ち着きそうな気がしますよ。

 

死にたい詐欺の孫より

 

 

 

 

 

おじちゃん

 

人はみんな元気な時「コロッと死にたい。その時が来たら何にもしないでくれ」と往々にして言うものです。

しかし土壇場になると、そうはいきませんね。

「あなたガンです。余命半年ですね」と、医者に簡単に言われてしまう時代です。

「ガンになったら、宣告された余命のうちにいろいろ片付けて、きれいに死ぬんだ」

そう言っていても、いざ宣告されると

「ホントに半年ですか?何とか治療の方法はありませんか?」と、抗がん剤治療を受けたりします。

死ぬのは怖いです。死を突き付けられた時の恐怖を元気な時は判らないものです。

おじちゃんは苦しい思いを沢山して、この治療をすれば生きられる。しなければ死ぬ。そいう時が何度もありました。

最後に入院した時、意識不明の状態から目が覚めて、私の顔を見て言いましたね。

「もういい。もうがんばれない」

その時のことをよく覚えています。

もう、「何言ってんの!またがんばろう」とは言えませんでした。

実際、その時おじちゃんが意識を回復したのは奇跡的でした。

人は死ぬ前に、ぐっと良くなることがあります。

私はおじちゃんが会いたいという人をみんな呼びました。

そしてお医者さんに呼ばれた私は最終決断を迫られました。

「おじさんはもう長くありません。透析の機械が回転していることが不思議です。

あなたの家から病院までは片道3時間です。あなたや他の家族が臨終に間に合う可能性は無きに等しいです。

その場合どうしますか?」

どうするもこうするも、命の火が消えたらそれまでと思っていた私は、お医者さんの言っている意味が判りませんでした。

「今は、最期をどうしても看取りたい人が多いのです。

だから、我々はその時を、みなさんが集まるまで伸ばすことがあるのです」

お医者さんの言うことが理解できませんでした。

「もう亡くなっているのに、無理やり心臓を動かすのですか?」

「そうです。みなさんがお揃いになるまで、私たちは人工呼吸を続けて、心臓を動かすのです」

「先生、それは先生方の手でされるのでしょうか?

もう生き返らないと判っていても、生きている家族のためにして、亡くなっている体はどうなるのでしょう」

「ハイ、私たちが心臓マッサージをして、胸を押し続けます。

そうすると、もう骨はもろくなっていますから、肋骨が折れて臓器に刺さることもあります」

「それでは、生きている者のエゴのためにするんですね」

「そうですね。この人工呼吸はご本人に対しては申し訳ないだけです」

「では先生、私たちが居なくとも、鼓動が止まった時を臨終の時間にしてください。

決して、生き返る見込みのない人工呼吸などはしないでください。

おじは親からもらった体を傷つけることを何より嫌がっていました。

これまで私はおじに、二度体を傷つけるように説得しました。

一度は指の切断。二度目は透析を受けるためのシャントの手術でした。

三度目はもう生き返らないのであれば、何もしないでください」

人の死の決断をすることは、容易なことではありません。

おじちゃんは私に「もうがんばれない」と言いました。

先生ももう最後ですと言っています。

それでも、私はおじちゃんの死の選択を「私が」したのです。

私はおじちゃんの子どもではありません。兄弟でもありません。甥の娘です。

血縁としては何の義務も責任も決定権もありません。

病院も担当医も、看護婦も、法律上誰に尋ねるべきかみんな知っていました。

しかし、病院の判断は「患者が望む判断ができるのは私」という見解でした。

それはとてもありがたく、そして一番悲しいことでもありました。

誰がどんな判断を下すかは、実際見てみなければわかりません。

私はおじちゃんが望む判断をしたと思っています。

しかし同時に、私の中には逃げたい自分もいました。

法的に私には決定権がないと言われたら、私は「おじちゃんの死の決断をしなくてよい」のです。

おじちゃんが望むようにするために、私が決断するのが良いとわかっていても、

そして、今でも、

「私に決定権をゆだねられなかったら楽だったのに」と思わずにはいられません。

それほど、人の死を決めることは重いのです。

 

私の周りも、だんだんと親兄弟を見送る人が増えてきました。

「延命治療しないって言ってたのにするっていうのよ」と、言う人。

「母に限ってありえないんだけど~」と現実を受け入れられない人。

そんなみんなに私が言うことは「親兄弟が死にそうになって、冷静でいられる人はいないよ。

取り乱していい。泣いていい。そして、みんな死にたくないし、死んでほしくない。

それぞれが『死にたくないし、死んでほしくない』と言うことを忘れないで。みんなの意見を聞いてみて。

答えはみんなの話し合いの中で見つかるはずだから」

一人の人が決断するのは関係者みんなが、何かしらの苦しみをもってしまうことがあります。

みんなで決められれば、その負担が無くなる可能性が高いです。

 

おじちゃん、私はどうなるんでしょうね。

おじちゃんみたいに「がんばれるか、がんばれないか」をちゃんと伝えらると良いなと思います。

 

死にたくもあり、死にたくもなしのとりあえず当面死にそうにない孫より

 

 

 

 

 

 

おじちゃん

 

世の中では墓じまいが話題です。そんな言葉おじちゃんは知っていましたか?

いつから言うようになったんでしょうね。昭和にはなかったと思います。

お墓をまとめるとか、引越すなんて言うのは、ほとんど聞かなかったと思います。
時々耳にしましたけどね。

おじちゃんがお墓を大事にしていたのを見て育った私は、何とかして、もうはいる人のいないおじちゃんのお墓を維持しようとしていました。

首のすげ替えじゃないですけどね、おじちゃんたちが養子にしたかった源氏の家の次男はお墓がありません。

だから彼のお家が血縁だから引き継いだらいいなと思っていました。

おじさんを一家を説得するのはできる自信がありましたが、問題は家族間のことだけではなくお寺さんにありました。

おばちゃんが亡くなって、納骨に行きました。おばちゃんは、実質おじちゃんのお墓に入る最後の人です。

お寺さんがびっくりすることを言いました。

「いつ墓じまいされます?」

 

なんのこっちゃですよ!これから納骨して、私たちはお墓参りに通うんですよ。

なんで来なくていいようにするんです?

それなら納骨する必要ないじゃないですか。

他にも納得いかないお寺さんの態度に、私は考えを改めねばなりませんでした。

おじちゃんのお墓は、お父さんたちが生きている間は、私が頑張って管理を引き継ぐつもりです。

私たち姉弟だけになった時は、おじちゃんたちのお墓は引っ越し決定です。

人はね、本当に簡単に言いますよ。

「あなたには遠い人たちのお墓じゃない。関係ないわよ。放っておけば無縁仏で、お寺が更地にしてくれるのよ。その間お寺の要求は無視していればいいの」

私はもうこの人とお付き合いやめたくなりましたけど、そうもいきません。

何しろおじちゃんたちと同世代で、師匠と呼んだこともある人です。

おじちゃんはお墓参りの時には家によって、私たちを拾ってからお参りに行っていました。

だから両親のお墓をどれだけ大事にしていたかを私は知っています。

子どもがいなかったから、いずれは無縁さんになってしまうとしても、

お寺さんにはできるときにできるだけのことをしようと、お寺に寄進したりお布施をたくさんしていました。

それなのに…

死んだらそれまでですか。

お寺さんが?

 

お寺さんは一族がみんな眠っているところです。だからそこでまとめて土に還るのも悪くはないと思います。

でもね、

私は思い出すんです。

お墓をなおした時に、屍櫃(かろうと)を開けたら、桐箱に入れて埋葬したひいおばあちゃんのお骨が、

箱はなくなり、お骨もほとんど土に還っているのを見て、拾い集めたおじちゃんがいました。

お茶椀一杯分になったお骨。

私はおじちゃんのお骨を人の手で土に還すのはいやだなあと思いました。

その手が考えていることは、「この土地で又新しい檀家がくる」と思っているかと思うと、さあ引っ越しだ!の考えになりました。

おじちゃん夫婦と、おじちゃんの両親、うちのお墓に引っ越してきても、

うちの人は誰も依存はありません。

どうせ最後は私たち姉弟だけの問題です。

 

私の頭がしっかりしているうちに、我が家のお墓の数も減らしておかないといけません。

私は墓もちだからねえ。

源氏と平家と足利家三つの墓について考えないといけません。

お墓を引越すにはお金がいります。

墓じまい貯金をしなくっちゃ。

 

それにしてもこんなにお墓にこだわっているのは、東京だからなんですよ。

なんと、地方によっては、骨を拾わないんですって!

火葬場でお骨にして、そのまま帰ってくるんですって!

「骨は拾ってやるよ」は全国区じゃなかったんです!

 

私がもし長生きして、何十年後かにはもっと事情が変わっているかもしれませんね。

みんなの骨を私がまとめて、私の死後は私のお墓参りをしてくれる人が見つかればいいですけどね。

私のお墓参りをしてくれる人はいない予定。

私が死んだあとはこの爺さん婆さんたちと私のお骨をまとめて何とかしてもらうように

書置きとお金も私はこれから貯めなくちゃいけません。

 

「なんでそんなにお墓のことばっかり考えているの」って言われます。

お墓は私にとって身近です。

大好きな人たちが眠っています。

今生きている人で大事な人も私が骨を拾う予定です。

これ全部の最後が私。

いとこたちに、「私が大事にしてきたんだから大事にして」とはいえません。

「私の骨も拾って」も言えるのかな。

自分で棺桶はいって、「はい、さいなら」って、土に還れたらいいのにそれはできません。

好きなことやって、やりたいことはみんなできた人生でした。

それができたのは、おじちゃんたち先達がいたからです。

だから私がお墓について考えて、その為に働いて貯金しようというのは何にもおかしくないです。

「夢がないなあ」という人もいますが、そうかなあ。

古代エジプト人みたいでいいじゃない。

こういうの、イスラームの人たちには理解してもらえます。

イスラームの考えでは、この世よりも来世が大事ですから。

 

それにしても懐かしいですよ。

「あんたに骨拾ってもらうよ」

そう言っていたおじちゃんが。

 

都民のままだと誰かに骨を拾ってもらう必要がある孫より

 

 

おじいちゃん

世の中には不条理なことがあります。
不条理は、別役実の世界だけでたくさんです。
おじいちゃんの弟は一族の不幸を全部一人で引き受けています。
良いことも悪いこともみんなに均等にきたらいいのに。
手を差し伸べたくても、何も出来ないことに天を仰ぎます。
時には何もしないことが助けになります。
「忘れていないよ」と、「何かあったら言ってね」と、切れない細さでメッセージを送り続けることが大事だと思います。
そして、藁にもすがる思いで何かを求められたら、その時はちゃんと受け止めてあげられるようにすることが大事だと思います。
頼まれたことを出来ないかもしれない。
それでも、何かできることはあるはずです。
時々、「いい人だと思われたくない」と言う人がいます。
助けを求めてる人は、掴めるものはなんでもつかみたい。
もし助けられるなら、周りの目なんか気にしないでほしいものです。
通りすがりの人でも助けてもらえたら嬉しいです。
助けた人に見返りを求めたり、お礼されたらと考えるからややこしくなるのではないですかね。
もし、誰かに助けてもらって感謝するなら、自分が助けてもらいたい時に、その場にいる人に遠慮なく助けを求めたらいいと思います。
そう言う世の中にまたなると良いと思います。
私が子どもの頃の下町はそんな感じでしたけどね。

出来ることをできる人がする世の中でありますようにと願う孫より

父上様

 

まったくもってありがたくないことに我が家の人々は相変わらず「先生の家の○○さん」と呼ばれています。

その先生が「父上」(しばらく更新していなかったので補足するとここの父上は実父ではなく、祖父のあだ名)であった時はよかったのです。

しかし、いつの間にかその先生が私になっているというではありませんか!

母は嫁に来て以来「先生の家のお嫁さん」でしたが、最近は「先生のお母さん」と呼ばれることがあるそうです。

そんな家のある所には全然帰りたくなくちゃうよ!おじいちゃん!

そりゃ亡くなって40年以上たっても「先生の家」と生徒たちから尊敬されていた父上の教え子もだんだんと雲の上の住人になる時代です。

人々と共に風化していくと思っていたんですけどねえ。

私は何のお免状もなく、教員資格もなく、ただ幼いころからお稽古ごとのおっしょさんについてウロウロしていただけです。

長く弟子をやっていると、先生補佐で生徒さんに教えることもあり、だんだんと「先生お忙しいならお弟子さんでも」と言われ、どこに出かけて行って教える羽目になることがあります。

何しろ私の取り柄と言えば「やめない」ことだけで、あとはなんにもありません。ただ「長くやっているだけ」なのです。

だから「先生」と呼ばれることは非常に抵抗があります。

世の中には何の先生だか?なのに「先生」と呼ばれたい人もいるのが不思議です。

 

父上のお気に入りの教え子が亡くなりました。

そりゃそうですよね。80の声を聞けば、亡くなってもおかしくありません。

ラックのおじさん、犬のラックだって亡くなってからもうふた昔以上です。

母の思い出「今日はラックの家で呑んできた」と、ご機嫌で帰宅する父上のほろ酔いで満足した顔。

ラックのおじさんは物静かでしたが、奥さんであるラックのおばさんは「先生の家のお孫さん」と私たち姉弟のことがわかってからは、とても良くしてくださいました。

不思議なことに、私がエジプトから帰ると必ず通りで会うのです。

駅前で信号待ちをしていると、行き交う車越しにおばさんは私を見つけて、両手を上げて私を呼ぶのです。

「いつ帰ってきたの!」

すれ違ってもわからなくてもおかしくないのに、同じ町内のおばさんという存在は、普通なら大人になった近所の子どもの顔など覚えていないでしょうに。

「先生の家」の人を大事にしてくれる教え子のお嫁さんたちは、ラックのおばさん以外にもいます。

ああ、なんと偉大な祖父を持ったことでしょう!
だからやっぱり、イヤなんです。「先生」と呼ばれるのは。

私はいつまでも「先生の家のお孫さん」でありたいのです。

 

先生の孫より

 

10月、気温30度のエジプトからもう冬突入のオーストリアはウィーンへ!気温は7℃前後で雨もしとしと。
飛行時間3時間半とは思えない気温差に体がついて行かない。
今年はエジプトのネット回線速度がものすごく緩やかで、あらゆるブログへのアクセスが非常に困難であった。
運が悪いと、アクセス時間が長すぎてパスワード確認が追い付かないのだ。
まあ、しょうがないよね。神がお望みじゃないんだからと思うよりほかにない。
エジプトでは最近自転車に乗る人が増えてきた。とはいえ道路は整備されていないし、おしゃれな自転車はぜいたく品。
都市部以外ではまだまだ女性が乗る乗り物ではない。
対してウィーンは、自転車道が整備され、駐輪ポイントもたくさんある。渋滞緩和に非常に役立っている。
エジプトがここまで来るにはあと何年かかるだろうか?
うらやましく思いつつ、ちょっとウィーンを散歩してきた。[a]


散歩に出たきりどこをほっつき歩いているのか?
見限らないで遊びに来てくださる方々に感謝。
なんと、エチオピアを散歩する機会がありました。
人生何があるかわかりません。
エジプトから日本に帰るのに、格安航空券を探していたら、エチオピア経由で帰るのが一番安かったのです。
こんな機会でもなければ、エチオピアに行くこともないでしょう。

今回日本へは、約4万年前に日本でナウマンゾウを狩って暮らしていたと思われる
野尻湖人とその狩場を探す発掘をするための帰国でした。 
エチオピアではルーシーという、350年前のお嬢さん(?)に会うことができます。
お嬢さんにそっとささやいてみました。
「年下の彼氏を探しに一緒に日本に行かない?」

「そおねぇだいぶ若いわね…」と、返事が返ってきたような気がしたのは気のせいでしょうか?

エチオピアはアムハラ語という謎の文字と言葉の国でした。
エチオピアの正式名称はもっと長いですが、通称የኢትዮጵያ (Ityop'iya) が、読める日は来るでしょうか?
ミミズがのたくったアラビア語は謎ではない私ですが、これは象形文字にしか見えません。
イタリアの植民地だったエチオピアでは、エチオピア風イタリア料理がホテルでは出されます。
首都のアジスアベバは都会で、ビルが立ち並んでいました。
ちょっと立ち寄ったエチオピアの景色を少々、お届けする予定です。[a]