その昔、フランシス・ベーコンの言葉に「人間の知性は明鏡ではなく、意志と感情で曇った鏡である」というものがある。一言で言うと、人間は、どんなに知性を以ってしても完全に客観的にはなりきれない、ということである。
いや、そんなことはない、という人もいるかもしれないが、その認識は誤りである。どんなに客観的であろうとしても、客観的であろうとする意志は主観であるからだ。となると、その主観を客観的たらしめようとすることは、無理である。別に言葉遊びを楽しんでいるわけではない。
しかしながら、昔から、自分の意見は客観的であり、真理である、と言っているような意見をよくみかける。そのうちの幾許かはたまたま第三者が見ても客観的であることがある。それは多くの場合、客観的たろうと細心の注意を払った結果であるのだが、それは結果論であって、客観的出ない場合もある。
困ったことに、所謂識者と呼ばれる人の言動をマスコミが喧伝した場合、多くの人がそれを客観的な意見、つまり「正しいこと」として受け入れてしまうことである。多くの場合、その識者の置かれた立場や状況、それを喧伝するマスコミの立場によって、バイアスがかかるものなのだが、わが国においては、マスコミは公正であり、不偏不党であるという幻想があるため、それがあたかも真理のように受け入れられがちだ。
例えば、経済評論家と称する人が、いろいろな経済や政策について論評している。しかし、その人の肩書きが銀行系のシンクタンクだった場合、銀行が行うことに対する批判をすることはないだろうし、銀行に有利な政策には批判せず、銀行に不利な政策には辛口のコメントをするだろう。マスコミだって、広告で成り立っている。広告主を批判するようなことは避けるか、避けられない場合でもトーンを落とすだろう。
例としては極端であったかもしれないが、多かれ少なかれ、人は発言するときは、主観的になるのだ。だから、聞く態度としては、完全に客観的な意見などはないという前提で、どういう立場の人なのかをつぶさに観察し、意見を割り引いて聞くことが必要なのだ。
それにしても、某大手新聞社の社説は、客観を装って、自説を居丈高に押し付けてくる。読んでいて、辟易する。
いや、そんなことはない、という人もいるかもしれないが、その認識は誤りである。どんなに客観的であろうとしても、客観的であろうとする意志は主観であるからだ。となると、その主観を客観的たらしめようとすることは、無理である。別に言葉遊びを楽しんでいるわけではない。
しかしながら、昔から、自分の意見は客観的であり、真理である、と言っているような意見をよくみかける。そのうちの幾許かはたまたま第三者が見ても客観的であることがある。それは多くの場合、客観的たろうと細心の注意を払った結果であるのだが、それは結果論であって、客観的出ない場合もある。
困ったことに、所謂識者と呼ばれる人の言動をマスコミが喧伝した場合、多くの人がそれを客観的な意見、つまり「正しいこと」として受け入れてしまうことである。多くの場合、その識者の置かれた立場や状況、それを喧伝するマスコミの立場によって、バイアスがかかるものなのだが、わが国においては、マスコミは公正であり、不偏不党であるという幻想があるため、それがあたかも真理のように受け入れられがちだ。
例えば、経済評論家と称する人が、いろいろな経済や政策について論評している。しかし、その人の肩書きが銀行系のシンクタンクだった場合、銀行が行うことに対する批判をすることはないだろうし、銀行に有利な政策には批判せず、銀行に不利な政策には辛口のコメントをするだろう。マスコミだって、広告で成り立っている。広告主を批判するようなことは避けるか、避けられない場合でもトーンを落とすだろう。
例としては極端であったかもしれないが、多かれ少なかれ、人は発言するときは、主観的になるのだ。だから、聞く態度としては、完全に客観的な意見などはないという前提で、どういう立場の人なのかをつぶさに観察し、意見を割り引いて聞くことが必要なのだ。
それにしても、某大手新聞社の社説は、客観を装って、自説を居丈高に押し付けてくる。読んでいて、辟易する。