『オンネトーの上を走れたらさ、写真を撮ってきてくれよ』
誰かが言った軽口だった気がする。笑って流した覚えがある。
想像できなかったんだ。湖の上を走るなんて。
12月31日、大晦日。早朝5時過ぎ。
雌阿寒岳登山組が準備を始めた物音で目を覚ます。
登るのは、津、TTA、ドラゴンスネーク、こぼちゃん。
9時ごろに再びここ野中温泉駐車場に戻ってくる予定だ。
そちらの様子は別記事にてTTAが記す。
残されたのは、俺、武士、つる。
俺とつるは目を覚ましていたが、武士は未だ深い眠りの中。
外はまだ暗く、当然ながら昨晩よりもさらに寒い。
二度寝するのも、シュラフの中でじっとしているのも、肌を刺す冷気が許さない。
やむを得ずテントの外に出る。前室に置いていた靴が石のように固まっている。
外に出たとはいえ、やることが無い。
こぼちゃんから車のキーを預かっている。
罪悪感を覚えながらも、俺とつるは車内に滑り込み、暖房をつける。
少し話したような気もするが、身を包む暖気によって瞬く間に気を失った。
再び目を覚ましたのは30分後の6時半。窓の外を見ると空が白み始めている。
武士に動きはない。つるも寝息を立てている。ボーっとする時間が続いた。
10分ほど経ったころ、武士が起きた。後ろ髪引かれながらも車外に出る。
一度起きれば武士の動きに迷いはない。テントから出ると、自転車に積もった雪を払い、寝具の片づけに取り掛かる。

寝具を片付けてテントを畳み終えた所で、未だに車内で寝ているつるを起こす。
目を覚ますと、つるは開口一番こう言った。「起こすのが遅いよ。もう空が明るいじゃん。」
ここでようやく異変に気付いた。腕時計を見る。
7時半...?武士が起きて一緒に片づけを始めたのは6時半じゃなかったか。
それぞれの寝具とたった1張りのテントを二人掛かりで片付けるのに、1時間をかけたことになる。極寒の外気の中、辺りが明るくなるのにも気づかず、無言で。
手を止めた記憶はない。寒さと疲労で朦朧としていたのだろうか。起こされた側のつるの文句に、普段なら小言の1つでも返すところだが、今回はぐうの音も出ない。
結局、つるの支度を待ち、オンネトーへ出発したのは8時だった。
登山組を待つ間にオンネトーを見に行こうという話は、前日にしていた。
オンネトーは高地にあり、さほど大きくない湖だ。湖面が凍っているかもしれない。
前回の三国峠ツーリングで、凍った湖面を自転車で走る人影を見てから、まねしたいという欲求がくすぶっている。
昨日までは冗談に近い期待だった。しかしここの寒さによって、現実味を帯びてきている。
俺のマウンテンバイクを携えて、オンネトーへ向かう。
オンネトーでは、冬季は湖畔までの道路が通行止めとなっている。
いくつかルートはあるらしいが、ちょうど野営した駐車場の隅から散策路が伸びていた。
冬季にもかかわらず綺麗に整備されていて、すでにいくつもの足跡があった。
ただ、轍は細く、1人分しかない。さらに、そこそこの段差がいくつもある。
普通に歩く分には問題ないが、マウンテンバイクを押して歩くとなると話は変わる。
自分か自転車のどちらかは轍からはみ出して、雪に足を取られる。
同行者がいなければ、開始数分で自転車を投げ出していたかもしれない。
ある程度上ると道は平坦になり、見通しの良い木立になった。差し込む光が美しい陰影を作っている。

せっかく走りやすい道なので、自転車でも走ってみる。冒険感があって良い。

次第に下り道になる。帰りも上らなければならないのか。
数分てくてく歩くと、森が開けていると思しき明るい一帯が前方に見える。
白い。雪面か?それとも水面の反射か?
期待に胸が膨らむ。
そしてついに森を抜け、オンネトーが姿を現した。

雪だ。興奮を抑えながら岸辺近くの湖面を踏んでみる。
確かな感触がある。我慢が爆発した。
自転車にまたがり、目一杯漕ぎ出す。地面が抜けるかもしれない恐怖など頭にない。
湖面を走っている。こんなに胸躍ることがあるだろうか。
空には雲一つない。湖の中央付近まで行くと、森に遮られていた雌阿寒岳と阿寒富士が見える。
この光景だ。道中の疲労など、この光景1つで吹き飛んでしまう。




まだまだ楽しみたいところだが、ゆっくりしていると登山組が戻ってきてしまう。
名残惜しいが、来た道を引き返す。
後ろから押してもらい、前から引っ張ってもらい、自転車を引きずるようにして駐車場に戻ると、ちょうど登山組も戻ってきたところだった。
登山組が装備解除し、適当に畳んでいたテントを綺麗にしまい終えた所で出発。
今日は弟子屈まで進む。
昨日240号と別れたところまで引き返し、弟子屈方面へ少し下ると、アイヌコタンがある。アイヌの集落という意味らしい。小さな集落で、エキゾチックな装飾がそこかしこに並んでいる。
中央通りからは雄阿寒岳を望む。
特産品をあつかう店に入ると、大小さまざまな彫刻やタペストリー、アクセサリー類が所狭しと並んでいる。やや値段が張るのは卓越した職人が手作業で作っているかららしい。
ザックから装備が飛び出た状態で不用心に店内を歩き回るつるに、かなり肝を冷やした。
津と武士が選びに選んで買い物を済ますと、ちょうど良い時間なのでここで昼飯を済ませようという話になった。「丸木舟」という店に入る。野生丼、縄文カレーなどの変わった名前の正体は、鹿肉だった。ホロっと崩れてとても旨い。
店を出ようとして割りばしをぶちまけた武士が平謝りするのを待ち、アイヌコタンを後にする。


今日の行程は下り基調だが、一度上らなければならない。双湖台と双岳台だ。
雄阿寒岳の南東にあるこの道はツーリングコースとして有名らしく、昨日の峠とは違って左右に開けていて開放感がある。双湖台まで上れば、左側に大きく雄阿寒岳、その後ろに雌阿寒岳を一緒に眺めることができる。
他の季節に来ても気持ちのいい道に違いない。
双岳台に着くと展望台があった。ここからも雄阿寒岳・雌阿寒岳を一望できる。
ここから弟子屈まではひたすら下りだ。その距離20km。
夏ならば喜ぶところだろう。だがここでは違う。
前回の三国峠ツーリングでは、俺を含む4人が下りで凍傷にかかった。
加えて、時刻は16時。途中で確実にナイトランになる。冬季ツーリングで最も怖い時間だ。
全員可能な限り着込み、大きく距離をあけて下り始めた。
下りの道に外灯はなく、路面は凍り付いている。
スパイクタイヤとディスクブレーキの面目躍如である。路面に対しての余裕と、制動力への安心感が段違いだ。
半分ほど下った頃だろうか。前方に津、その前に武士の姿を捉えた。
武士は平地・上りには強いが、下りに弱い。そのうち、後ろからドラゴンスネークとTTAも追いついた。凍った路面の下り坂でナイトランという状況なので、慎重を期すのは全く問題ない。
しかしこのシチュエーションは、武士にとって背中を炙られるような焦燥感を与えたらしい。
下りも終わろうかという頃、徐々に外灯が現れ始め、路面からもほとんど雪が消えた。
頃合いと見た武士は、下りの鬱憤を晴らすように爆走を開始した。後ろにいた俺たちは、驚いてその背中を追う。
2,3km走ってもそのペースは落ちない。
前方に、先に下って後ろが追いつくのを待っていたつるの姿が見えたが、ゾーンに入った武士にとってはカカシ同然だ。一瞥もくれずにその脇を抜き去る。『え』というあっけにとられた声が聞こえた気がする。
その後も武士の進撃は続き、弟子屈町に入って初めての信号が見えた所でようやく足を止めた。つるに付き合うために途中で別れた津、TTAらが追いつくと、賞賛と呆れの声が送られた。
風呂に向かう前に、セイコーマートで空腹を癒す。HOT SHEFに並んだ温かい食品を買い込んで外に出る。かなり下ったにもかかわらず、弟子屈の気温は低い。その上、かなりの風が吹いている。買ったばかりのご飯が、見る見るうちに熱を奪われていく。おそらくここでは、買ったご飯を店の前で食べる人などいないのだろう。
待ちわびた温泉に向かう。ビラオの湯という日帰り温泉だ。通りから見ると温泉には見えず、おしゃれなペンションといった感じだ。温泉の主人はライダーに理解のある方らしく、奇怪な格好の俺たちを見ても、『自転車で来られたんですか』と落ち着いた様子だった。
昨日と違い、時間に追われることなく風呂に入れる。体を流して湯船に入ると、津が違和感を覚えた。
足の指先が痛むらしい。前回凍傷にかかった時と同じ症状だ。
前回は、温めれば治るだろうと安直に考え、痛みに耐えながら層雲峡の風呂に浸かった結果、帰ってから2週間近く指先が白くなったまま戻らずに怖い思いをした。
指先をマッサージし、慎重に湯温に慣らしながら体を温める。
ご厚意で玄関スペースで少し休んでいいと言ってもらえたので、荷物の整理をして野営に備える。

近くでなんとか風を遮れそうな場所を見つけ、テントを設営する。明らかに昨晩より冷える。
鍋に加えて、つるが持参したうどん・餅・味噌で味噌煮込みうどんもどきを食べる。そこに獺祭の熱燗。
年越しそばと雑煮とお屠蘇を一緒くたにした感じだ。
空気が澄んでいて、街明かりからは少し離れているので、満点の星空を眺めることができる。
明日は元日。今回のツーリングも折り返しだ。
(天狗)




