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写真原人のブログ

写真原人による狩猟採集の結果報告


   『ポーカーフェイス』

  


 ゴミだらけの川を見ながら、
「汚ねぇ川だな」
 と悪態をついてると、ゴミの山に立ったアオサギにふと、気づいたりする。
 そこで彼は魚を狙っているのだ。もしかすると、もう何時間も経っているかもしれない。
 以前にこんなことがあった。
 ある場所に向かう途中、池の片隅で、一羽のアオサギが獲物を待っていた。通り過ぎてしばらく経ってから、忘れ物に気づいた。引き返し、池の前を通っても、アオサギはそこにいた。
 もしかすると、忘れたのではなく、どこかで落としたのかも、と焦りながら、部屋に戻ると、ちゃんとそこにあった。安心して、さっきと同じ道を通った。
 アオサギはまだそこにいた。一時間前と同じ姿勢のままだった。まるで静止画像だった。
 この鳥には何が何でも魚!という頑張りや悲壮感はあまり感じられない。淡々と確実に魚を狙っている。何度も獲りそこねると、ときどき、あくびのようにくちばしを開く。
「ちぇっ!」
 という人間の舌打ちにも見えて、何となく微笑んでしまう。

 獲物がいれば、彼らはそこでじっと待つ。あなたも見たことがあるだろう。海、漁港、池、湖、田畑、ドブ川、ときには側溝などで、獲物を狙うアオサギを。名前は知らなくても、こんな印象だけは持っているかもしれない。
「静かな鳥」
 そんなアオサギは、かつては珍しい鳥だった。ある野鳥写真家によれば、30年ほど前には、アオサギを撮るためにわざわざ北海道まで行ったという。今や至るところにいる。そんな印象の強い鳥だ。環境悪化の30年間、他の野鳥は減っても、この鳥が増えているのはなぜだろうか。 
 獲物を丸ごと食す豪快さ、長い首と脚、大きな翼、ほっそりしたシルエット、素っ頓狂な瞳、天性の物静かさ、と同時に、鳴き声の奇怪さ。背を丸めた後ろ姿には哀愁が漂う。魚やカエル、ヘビ、ネズミ、他の鳥の雛をはじめ、何でも食べる。あるとき、亀までくわえていた(その後、食べたかもしれない)。縄張り争いもしょっちゅうやる。いつ通っても、同じような場所で獲物を待つ。 
 食欲、闘争心、継続性、そして、ある種の憂い。
 人間も似たようなことをやっている。

 
 人間も眠れば、もちろん、アオサギも眠る。
 この写真を撮ったのは、ある小春日和の午後だった。
 コタツで丸くなってた人も猫も、枯れた芝生の上でごろごろする。そんな快晴だった。
 ふと、木立を見遣れば、彼がいた。まともに日差しを浴びて、丸まっている。首を羽に埋め、パッと見では、具合が悪そうにも見える。こんなふうに学校の教室の後ろでうずくまられたら、誰もが心配するだろう。
「大丈夫?どこか調子でも悪いの?」
「ちょっと、気持ち悪くて」
 という返事を予想していたら、こんな答えが返ってきたりする。
「ほっといて!」
 それによく似た一場面が、かつての苦い思い出として残る人もいるかもしれない。
 彼はそんなややこしくない。自前のふかふか毛布のような翼に包まれ、のんびり眠っている。しかも、見晴らしの良い一等の場所だった。見てるこちらも眠りに誘われそうになる。
 鳥たちも、人間と同じように、太陽を頼りにしている。一つの太陽をみなが分かち合っている。あんなに遠くにあるのに。当たり前のことだが、これはすごいことだった。
 子供たちの声も聞こえる。風もなく、人々のバドミントンのシャトルさえ、思い通りに飛んでゆく。
 眠ってるときも、アオサギは静かだった。首から垂れたマフラーのような羽をちょっとどかして、すやすや眠る。ときどき、もぞもぞしたりする他は、動かない。人も眠気を催すころあいの時間。木立の上、心地よい日差しを浴びている。静かな鳥の静けさが、いっそう増してくるようだ。
 ところが、ねぐらのアオサギは、この上なく騒がしい。あなたも経験したことがあるかもしれない。例えば、夜、鎮守の森などから、聞こえてくる。行き交う奇怪な絶叫は、朝から夕にかけて、狩場でじっと黙り込んだ裏返しゆえなのか―と思わず想像してしまう。あるいは、何だかほっとして、お互い、一日の報告があふれて止まらなくなっている。そんな印象を抱く。ポーカーフェイスの隠れた一面かもしれない。
 とにかく、普段見せない顔を、家では見せる。
 翌朝、いつものポーカーフェイスで狩場に向かう。
 人間だって似たようなことをやっている。    

              
 (写真・文 写真原人)

 



     『忍ぶ日常、パリでエメラルド』





 気配を消して近づいてみても、臆病な鵜はすぐに飛び立ってしまう。独特の助走スタイル―5、6歩水面を蹴り上げ、離陸する。
 飛び立った後には、激しい波紋がいくつも残される。鵜の慌てぶりを物語って、面白い。立つ鳥跡を濁さず、という諺とはまるで逆だ。
 漁業関係者(養魚なども含め)には嫌われがちな鳥だろう。大食漢ゆえに魚を食い荒らし、ねぐらの木々を糞で枯れてしまう。あなたも目撃したことがあるかもしれない。川の河口の木立がすっかり錆びれたように枯れてしまっているのを。ふと、見遣れば、蝙蝠傘のように鵜の群れがぶら下がっている。
 鵜飼いの鵜を除けば、厄介者―というイメージが定着しているかもしれない。
 鵜対策として、テグスが張り巡らされているため池があったりもする。これに絡まり、他の鳥たちが死んでしまうことが多々ある。骨になったアオサギの死骸は何度見ても、痛々しい。本来飛べるはずの鳥が、身動きも取れず、息絶えるのだ。
 テグスに絡まる鵜は、一度も見たことがない。用心深いのだろうか。
 けれど、ある川の河口で、引き潮のとき、干潟に流された鵜の死骸を見たことがある。目立った外傷はなく、きれいなまま、硬直していた。まるでボウリングのピンのような形だった。おそらく、豪雨と言う名のボールになぎ倒されたのだろう。
 遠くでは真っ黒に見える羽も、灰色や茶色の光沢が確かにあって、地味だけど、美しかった。そして、エメラルドグリーンの瞳は、どこか浮世離れしていた。

 
 考えてみれば、鵜は奇妙な鳥だ。地味なくせに、瞳だけ垢抜けている。まるでヨーロッパの人たちの瞳のようだ。どこかしら、そんな瞳を持ったことに戸惑っているようにも見える。こんな心の呟きさえ聞こえてきそうだ。
「スズメのように何もかも地味で生まれてきたかった。よりによって、瞳だけエメラルドのグリーンだなんて。おかしいって、みんな笑ってるわ。わたしは目立つのは嫌いな性分なのよ」 
 その証拠か知らないが、この鳥は寡黙だ。ほとんど鳴かない。牛と羊の中間ぐらいの声で、喉を震わせるように鳴くのを何度か耳にした。管楽器のような声質だ。それさえ、気のせいだったかも、と思わせるようなところがある。
 繁殖期になれば、鳥たちは美しい声でさえずる。鵜の場合、垢抜けた瞳だけ見れば、艶やかなソプラノを期待してしまうところだ。スポットライトの舞台上で、堂々と独唱する。そんな映像が浮かぶ。けれど、実際は寡黙で、控えめで、ほっとけば、影のように佇んでいる。どちらかと言えば、ソプラノ歌手より、小国の忍者のほうがぴったりくる(潜水の術も得意だ)。
 とは言え、忍者も恋をする。それこそ、忍びの恋だが、本当の忍者とは違い、この写真のように、われわれの目の前で仲むつまじさを見せてくれる。まるでパリやどこかのしゃれた街の通りで、愛を交し合う恋人たちのようだ。このときだけ、彼らは忍者であることを忘れる。そのオープンぶりは、やはり、ヨーロッパ由来のエメラルドグリーンの瞳ゆえのものだろうか。
 そうして、十分にパリを満喫した二人は、日が沈む前に、再び忍びの者となって、5、6歩水面を蹴り上げては、空高く飛んでゆく。


   (写真・文 写真原人)


 

  『ウミネコヘッド』
 


 鳥たちが何を考えているかは、わかりかねるところがある。
 人を警戒してるかどうかだけはわからせてくれるが、細かい心理はわからない。
 遠目から見ると、ウミネコの姿はかわいらしい。民芸の陶器のように素朴で、良い形をしている。
 けれど、近づくと、目つきの悪いスキンヘッドのおっさん、という風貌をしている。
 ガラの悪い下町とかで、派手なジャージを着て、朝の銭湯に通う老人、という感じがする。
 それでも、見た目とは違って、本当のところ、性格は良く、見知らぬ人にもやさしかったりする。
 そして、家族の誰よりも孫をかわいがり、スキンヘッドの頭をぺしぺしされても、笑っている。
 そんなウミネコじいさんは、案外、多いかもしれない。


 天気の良い日、港に行けば、たむろする老人の男たちをよく目撃する。
 将棋を指すわけでもなく、日がな一日、冗談を言い合っている。
 ヘミングウェイの『老人と海』という小説にある通り、老人と海はしっくりくる。
 そんな漁港でウミネコたちはのびのびと過ごしている。
 電灯の上で羽休めするウミネコは、どこか超然としている。
 まわりの時間とは関係なく、独自の時間を編んでいるように見える。
 その下で、地元の漁師が、仲間と潮の状況についてしゃべり合っている。
 モーターがついただけの小さな船には、もちろん、魚群探知機などない。
 しばらくして、話がまとまったのか、二人の漁師が出てゆく。
 漁に行くというより、今晩のおかずを獲りにゆくという感じだ。
 ベタ波を切ってゆく小さな船は、彼らにとってはサンダルのようなものなのだろう。
 切らしたタバコを近所の自販機に買いに行くように、気軽に出てゆく。
 その何気なさに感心していると、頭上のウミネコはしきりに首を振っている。
 あちらこちらとひっきりなしに眺め回し、まるで小鳥のように落ち着かない。
 何を読み取っているのだろうか、そのウミネコヘッドで。


 以前、漁港の堤防の上で、電灯のウミネコと同じ目線の高さになったことがある。
 やはり首をやたらと動かし、まるで監視レーダーみたいだ。
 視線の先を辿っていっても、そこには青空しかない。
 いったい何を考えているのだろうか、とじっと観察していると、ふいに糞を放ったりする。
 地上の猫のように、独自の音や匂いの感覚で、周囲の状況を把握している。
 何十キロ先の魚の群れを探り、天敵の猛禽類を警戒している。
 そんなふうにも見える。けれど、そのわりには、鋭い眼光があさっての方向を見ている。
 人なんかは考え込む場合、腕組みなどして、うつむいて歩くことが多い。
 そのとき、目だけあらぬ方向を見ていれば、どうなるだろう。
「あの人、考え込んでるんじゃなくて、わたしたちを笑わせようとしている‥‥」
 と通りすがりの人は思うかもしれない。
 あるいは、むつかしい顔をした学者肌の人が内心「プリン」のことばかり考えている。
 それと同じことかもしれない。
 何か裏腹で、そのちぐはぐさに、しっくりこない。
 しっくりこないと、余計に興味が湧くのは、人の心の不思議さでもある。
 何かを察知しているようだけれど、とんちんかんな表情をしている。
 間近で見れば見るほど、謎は深まってゆく。
 ようやく、この頃、心地よい敗北感のようなものに包まれながら、ひとつの結論に達する。
「ウミネコは…きっと…何も考えていない…」
 その瞬間、あまりに近づき過ぎたために、さっと羽ばたいていってしまう。
 ミステリアスな女のように、こちらを置き去りにしてゆく。
 そして、どうせ戻ってきた漁船に群がり、嬉々として魚を食らうのだ。
 またひとつ、小さな片思いの恋が破れた。
 それにしても、ウミネコの白は青空に映える。
 

 鳥たちの心はわかりかねる。
 鳥たちへの接近は、いつも失恋の危機をはらんでいる。
 わかった気になったとたん、舌を見せて飛んでゆく。
 ある鳥の現場で出会った老人が、こんなふうなことを語っていた。
 鳥の撮影歴は、ン十年にもなる。
「鳥たちのことは、まだまだよくわからない」
 経験豊富な者であっても、そうなのだ。
 脱いだ帽子の頭に、老人の歴史が刻み込まれていた。
 ウミネコヘッドになる一歩手前―産毛のような白髪が、絶滅危惧種のように残っている。
 年齢とは裏腹に、まるで雛の頭のようだった。



(写真・文 写真原人)

 『夕方、どこかの風呂場から』


 この写真を撮ったのは、ある日の夕暮れ前。
 少し湿っぽい空は薄雲混じりで、ときどき日差しが覗いた。
 何度となく通り過ぎた川沿いの道だった。
 いつも一羽のコサギがこの場所で魚を狙っていた。
 判別はつかないが、同じ個体だろう。おそらく、彼の縄張りの一つなのだ。
 ほとんどの場合、近づけば逃げ去ってしまう。
 この日は珍しく、近くで見下ろしても、逃げなかった。
 川魚の豪快盛りを夢見て、集中していたのかもしれない。
 彼は優秀なハンターだった。目撃してる間に、何匹もの小魚を捕獲した。
 静止して辛抱強く待っているかと思うと、急にあらぬ方向に動き出す。
 ときどき、足をごそごそやって、驚いた足下の魚たちを誘い出す。
 知恵が回るのは、小柄な者の常かもしれない。
 そしてなぜかふいに飛ぶと、堤防の上に着地し、軽く尻を持ち上げる。
 足下には飛沫のような白い痕がいくつもあった。
 つまり、そこは彼のトイレなのだった。わざわざそこでする理由はわからない。
「川が汚れるから・・・」という理由だとしたら。けれど、すでにこの川はゴミや汚泥であふれている。
 散歩や通勤、通学、たまたま通った人も、気にかけることなくただ通り過ぎる。
 彼は用を足すと、再び臨戦態勢に入った。
 ちょうどその頃、じわじわと西日が差し始めた。 
 ありふれた小柄な白い鳥が、にわかに陰影を帯び、葉巻きの似合う男に変わった(この写真ではないけれど)。 
 あるとき、散歩のおばちゃんたちが、コサギの鳴き声を聞きながら、こんなふうに漏らしたことがあった。
「もっと良い声で鳴いたらなぁ。きれいな鳥なのに」。
 コサギは、風呂場で鼻をかむおっさんのような声で鳴く。
 そんな声も封印して、彼は獲物を狙い、立て続けに勝利した。 
 魚を飲み込んだ後、必ずくちばしをゆすぐ。なぜなのかはわからない。
 そして、飲み込まれた魚が、暗闇の中で、いったい何を思うのかも、謎といえば謎だ。

 日が沈みかけ、こちらが先にその場を後にした。
 腹を満たせば、彼もねぐらに帰る。夜、仲間と林なんかで丸くなって眠る姿は、白い花のようだ。 
 ありふれた鳥だけれど、さまざまな場所で、いろんな顔を見せる。距離感でいろいろ変わる。
 一つだけ変わらないものがある。西日でハードボイルドに決めても、それだけは変わらない。 
 あなたも聞いたことがあるかもしれない。 
 夕暮れどき、それはいきなり聞こえてくる。近所のどこかの風呂場から。
 こちらに屈託がなければ、どこか笑えてしまう。