『膝の裏を求めさすらう』
忍び足で人の背後に近づき、膝頭を相手の膝の裏あたりにくっと突き出す。不意をつかれたAは、体勢を崩し、驚いて後ろを振り返る。だが、そこには誰もいない。ただ目の前を見知らぬ男が通り過ぎようとしている。
「やっただろ!」
Aがそう叫ぶと、男が振り返る。口元にどこか不適な笑み。
「え、何を?」
「おまえだろ!」
普段のAはおとなしい性格だったが、不意の奇襲に、一気に感情が高ぶった。
「だから、何を?」
Aは男に歩み寄り、ぐっとにらみつける。それから、自分の膝を屈伸させるように前に突き出した。
「これだよ!」
「何だよ、それ?」
何度も繰り返してるうちに、Aの額に汗がにじんできた。関係者以外には、スクワットしてるようにしか見えなかった。顔を上げ、Aは叫んだ。
「膝カックンだよ!」
いたずらの定番としてまっさきに挙がるのが膝カックンだろう。相手を秒殺的に貶めるえげつない技だ。不謹慎さでは握りっぺに分があるが、唐突さと、しかけられた者の脱力感という面では、これを凌駕するものは、そうそう見当たらない。
誰が発明したかは、定かではない。わたしの物心つく頃にはすでに存在していた。恐らく、弥生初期には今の原型のようなものが生み出されていたのだろう。
山を切り開き、開墾された田んぼで、大人たちが田植えをしている。子供だって手伝う。だが、どこの集団にも怠け者はいるものだ。親の目を盗んで、一人の少年が鳥や猪ばかり追っかけている。ある日、呼ばれても声の届かない山の中で、一頭の小鹿と出会う。驚いた小鹿が崖を駆け上がっていったとき、岩に足を取られ、一瞬、小鹿の膝がカックンとした。そのとき、少年はひらめいた。早速、得意顔で田んぼに戻り、腰を曲げて田植えする大人たちの背後に忍び寄った。珍しく手伝う気になったのか、と大人たちに揶揄されながら、少年はさらに近づいていく。次の瞬間、体勢を崩した大人は泥の中に突っ伏していた。コカコーラのCMに出れそうなほどの弾ける笑顔で、少年は大人たちに次から次へと膝カックンをしかけていった。わぁ、だとか、へぎゃみ、だとかの声が、集落のあちこちから聞こえてきた。日が暮れる頃までには、少年はとうとう集落全員の膝の裏を奪った―。以来、少年はただの少年ではなくなった。膝カックンの伝道師として、周囲から一目を置かれる存在になったのだ。隣村だけでなく、全国に真似するものが続出したのは、言うまでもない。のちに、少年の流れを汲む弟子たちが唐に渡り、膝カックンの普及に努めた。
今でも全国津々浦々の集落の境界線辺りに、膝を突き出した地蔵が散見される。膝カックン地蔵―。現代に生きる我々の暮らしに最もなじんだ存在として広く知られる。
人生には星の数ほど驚きがある。本当に腰を抜かすものから、ただはっとさせられるものまで、不意を突いて起こる出来事は、人にさまざまな驚きをもたらす。
ある知り合いの老人にわたしは驚かされた。
しゃべってる最中に老人の入れ歯が外れた―などという程度のものなら、驚きはしなかった。それ以上だった。
もう10年来の付き合いになるその老人は、わたしの目の前で、一個のみかんをつかんだ。自分の所有する山から、収穫されたものだ。余談だが、この年齢層に特有の傾向―白髪混じりの鼻毛は自由奔放に飛び出している―。
みかんをつかんだことがある人なら、次の行動などたやすく予想できるに違いない。
みかんの皮を剥いて、中身を食べる―。
正月には、鏡餅の上に置く場合があるが、それはあくまで例外だ。
みかんを手に取れば、きっと人は皮を剥いて、中身を食べようとする。わたしはもちろんそう予想した。みかんの底に指を入れ、皮を放射線状に剥いていく。そうすれば、見た目もきれいだし、一つずつつまんで食べることもできる。房の皮が苦手な人にも、理想の食べ方だ。というか、今までそれ以外の食べ方をする人間を見たことがなかった。当然、老人もそうするだろうと、わたしはのんきに構えていた。
不意の出来事は、まさに、我々の盲点を突くかのように、日々、目の前に提出される。
まず老人は、みかんを皮ごと真っ二つに割った。それから、ばりばりっと乱暴に皮を剥き、二つに割れた片方を口に放り込んだ。何の迷いもない。生まれてこのかた、この食べ方しかしたことがない、という率直さだった。そして、もう片方を頬張ると、あっという間に平らげ、2個目を手に取った―。
ゴリラみたいだ・・・思わず、そう感じた。とにかく、類人猿の行動を目の当たりにしてるようだった。
確かに、老人は直情型の自己中心的、せっかちで、白黒はっきりしないと気が済まない性格だった。それゆえ、周囲との軋轢も絶えなかったが、早くに独立し、一国一城の主になって、それなりに財もなした。食べ方と人生観は相通ずるところがあるようだ。
竹を割ったような性格―ではなく、みかんを皮ごと真っ二つに割る性格だったのだ―。
10年来の付き合いだが、初めて知ることだった。
やがて老人は2個目を同じやり方で食べ始めた。
そして―3個目を手に取った・・・。
黒と白のツートンカラーに、灰青色がかったくちばし、卵の黄身にしょうゆを一滴垂らしたような瞳、頭頂部には輩のモヒカンのような冠羽。
これが33ナンバーの車だったら、どうだろう。黒と白のツートンカラー、その運転席から、一人の輩が出てくる。灰青色のガムをくちゃくちゃさせながら、黄色のサングラスに、頭頂部はモヒカン。何かよからぬ気配が漂いそうな瞬間だ。
キンクロハジロに限って、そんなことはない。
どこか憎めないのだ。愛嬌があり、ほとんど寡黙で、まれに雄が「パポポロゥン」と鳴くことがある。外見からは想像できない声だ。
潜水型の鴨で、主に貝や小魚を食べる。他の鴨類と比べて、小柄だ。潜水型ゆえに足が後方にあって(水中での推進力を得るため)、泳ぐ姿は、ハイハイするオムツ姿の赤ん坊を思い起こさせる。
秋に渡ってきたばかりの頃は、警戒して、池の真ん中辺りに十数羽でたむろしている。人なっつこいヒドリガモとはそこが違う。慣れてくれば、公園の餌台に向かうコブハクチョウの後ろをついていく。雑穀などのおこぼれに集まった小魚を頂くためだ。
公園の餌台前には、身体の大きさ順に、コブハクチョウ、ヒドリガモが並ぶ。さらに後方にキンクロハジロが控えめに陣取って、チャンスを窺う。そして、自分のタイミングが来ると、えいや!と勢いをつけて、潜る。10数秒後、浮上してくる。手を伸ばせば届きそうだが、慌てて身を翻す。そのとき、モヒカンの冠羽が水をみごとに弾いてゆく。慌てぶりがかわいらしい。まるで生まれて初めて膝カックンに挑んでみた―そんな少年のドキドキ感が伝わってくるようだ。彼らは憎めないいたずらっ子なのだ。
コブハクチョウが去ると、何事もなかったかのように、静かに遠ざかっていく。ピューピュー鳴くヒドリガモとは対照的に、多数派の中心から離れ、少数でひっそりと寡黙に、夕暮れの池に紛れ込む。
マガモ、ハシビロガモ、ヒドリガモ、ホシハジロ、長く日本に滞在するコガモですら、北へ旅立った中、少数だが、彼らの一派がとある池にまだ残っている。よほどの日本好きなのだろうか。
ツバメを始め、他の鳥たちはすでに巣を作り、抱卵している。例えば、ケリは子育ての真っ最中だ。この時期、極端に警戒心が強くなり、雛を守ろうと、狂ったように鳴く。そのケリの親鳥に、彼らの一羽が追い払われていた。水辺の鳥である彼らが、ケリの雛にちょっかいを出すことはないと思う。きっと驚いたことだろう。
そんなことはあっても、彼らに焦るそぶりは見られない。黒と白とで身体の色ははっきりしているが、何となく曖昧で、おっとりとしている。竹を割ったような性格―ではなさそうだ。ましてや、みかんを皮ごと真っ二つに割るような性格―ではない。少数ゆえか、小競り合いをすることもなく、穏やかに水面を漂い、頭上を飛ぶ燕に好きなようにさせている。きっと自分たちのペースを心得ているのだろう。いつ旅立つかは、彼らだけが知っている。まもなく、ある日、忽然と、姿を消す。痕跡すら残さずに。その唐突さと、残された者の脱力感は、膝カックン後のそれを凌駕するかもしれない。
(写真・文 写真原人)




