道についての記憶8 『燕の尻』 | 写真原人のブログ

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写真原人による狩猟採集の結果報告

 これから始まる季節についての一文。


 商店街の尽きるあたりに、神社があった。その横を小さな川が流れていた。川と言っても、子供たちがわいわい遊ぶようなところではなく、よくあるドブのような川だった。暖かい季節になると、羽虫がたくさん湧く。その存在は目には見えないけれど、燕たちが激しく飛び交うから、確かに居るんだと思う。

 古くからの街道で、往時はにぎわったという。今は名残はない。繁盛する店はわずかにあっても、その秘訣を乞うて、自分たちも、と思うには、他の店には余力がなかった。どうやって日々やりくりしてるのかはわからなかったが、何とか続いている。乾物屋のおばちゃんは、いつ店の前を通っても、同じように、でん、と座っている。口を開かなければ、よくできた置き物のように見えてしまう。
 昔ながらの町家は、燕たちのちょうどいい棲み家になっている。ひっきりなしに飛び交う姿は、めぐる季節そのものでもある。やがて、あちこちの軒先から、雛の声が聞こえてくる。意識していないときにも、時間は当たり前に流れていくことを知る。
 住民たちも、この縁起の良い鳥には、やさしい。巣を支える台をこしらえたり、燕の起床時間に合わせて玄関を開けたり、見上げては声をかけ、微笑む。玄関前の糞まみれのチラシは、人間のいじらしさを表すようでもある。害鳥とみなされる烏では、こうはならない。
 分刻みのスケジュールと言えば、多忙のビジネスマンなんかを思い浮かべる。カタカナ英語を連発し、スリムなスーツに、やや後ろに流した長めの髪は整髪料でてかっている。先の尖った靴は、アスファルトを跳ね、隙間を探し、マネーをつかむ。ビジネスマンの動きを地図上に落とし込むと、彼らにとっての宝のありかがわかりそうでもあった。
 燕たちも負けていない。彼らの手帳は、えさ捕りのスケジュールで埋まっている。ひっきりなしに水面すれすれを飛び交う。不意をつく切り返しは、トラブルをウイットで切り抜けるビジネスマンの反射神経のよう。行ったり来たりをいとわず、虫を捕まえては、雛の口に放り込む。疲れることがあるのか。たまに電線で鳴いてるが、あれは愚痴っているのか、ビジネスマンだって飲み屋でひと息つくときもある。いつも思うのは、燕たちの尾っぽの先に糸がついていたとしたら、巣に帰る頃には、もつれて、きっと固結びになっているだろうということだった。心が、いや身体が、そのどちらともが、そうなったっておかしくない。それほど日中、忙しく動き回っていた。
 日が沈めば、商店街のシャッターも閉まり、乾物屋のおばちゃんは、今度は部屋に場所を移し、やはり店と同じように、でん、といつもの椅子に座るのかもしれない。アーケードが尽きるあたりは急に暗くなり、気づけば、私はそこまで進んでいる。足元には糞まみれのチラシ、玄関上で、燕たちが巣に頭を突っ込んで尻だけ見せている。まるで六畳一間の大家族で、一つのふとんから何本もの足がはみ出ている。眠っているのか、日中の多忙ぶりからは想像できないほど静かだった。
 その頃、キーボード打ちにも疲れ、白いイヤホンをしたまま、新幹線の中で、ビジネスマンは窓にもたれて、うたた寝している。日中、街を激しく往来する人々も、夜になれば大抵眠りにつく。それぞれの部屋に帰り、それぞれの枕に頭をのっけて、隣に誰かいたりいなかったり、ときには寝言やいびきを交え、死んだように眠る。眠る姿からは、活動中の姿は想像しにくい。空き缶拾いが哲学者顔、キオスクのおばちゃんが涙顔、OLはスキンケアのマスク顔 、子供の顔はやけに大人びて、英雄や独裁者は呆けた顔、巣からはみ出た燕の尻。
 燕は、歩くのは苦手のようだ。いつだったか、砂浜を歩くのを見たことがある。赤ちゃんみたいによちよち歩き、飛んでるときのスマートさはなかった―。
 ふと見ると、神社前には一台のカブが止まり、暗がりの暗がりに向かって、手を合わす姿が見える。ああ、そういうことなのか、と私はなぜか腑に落ちて、夜道を進む。


(文・写真原人)