歌手越路吹雪の先輩の可能性~絵本「かさじぞう」の作者瀬田貞二夫人の村松きく代さん~
絵本「かさじぞう」の再話は「瀬田貞二」さん、絵は、日本の絵本画家として初めて国際アンデルセン賞画家賞を受賞した「赤羽末吉」さんであり、再話者瀬田さんに「かさじぞう」の話を聞かせた「話者」が、瀬田夫人の瀬田きく代さんであることを書いてきました。
瀬田きく代さんは旧下水内郡太田村(現飯山市太田)の出身です。
11月末の日曜日、その瀬田きく代の実家であることを探り当てた江沢岸生市長と一緒に訪ねました。予想通りその家がきく代さんの実家であることを確認できましたが、、きく代さんのことについては、代が変わり詳しいことが分かりませんでした。
ただ、瀬田貞二さんが、1916年(大正5年)生の存命ならば現在107歳。
きく代さんが、「かさじぞう」の話者である人物像の概要を推測したいと思います。
注)きく代さんの実家へも、きく代さんのことを調べていただくことは依頼してあります。瀬田貞二略年譜によると、
1942年に、瀬田は召集され、市川市国府台陸軍病院衛生二等兵として赴任。看護婦の村松きく代と出会った。
1945年(終戦の年)、瀬田は復員 招集前の職場の桂友中学校に復職。
瀬田は、その秋にきく代との結婚を申し込むために、きく代の実家飯山を訪れ、その秋に結婚した。
と書かれています。
きく代が貞二と出会った時、きく代は看護婦でした。
当時、看護婦資格取得は、高等小学校を卒業し、高等女学校に進学し、さらに看護婦の資格を取るために看護学校に進むというのが一般的でした。
当時の飯山町には下水内高等女学校が飯山町にありました、
当時の高等女学校への進学率は、1925年(大正14年)は14.1%、昭和10年には16.5%でした。
こういう状況の中で、きく代は下水内高等女学校で学んだことになります。
きく代の家から女学校までは直線距離で11km。
飯山線の戸狩駅(現 戸狩野沢温泉駅)まで約3.5km歩き、飯山線で飯山駅まで行き
学校へ行く方法もありますが、冬は下宿をする場所にきく代の実家はあります。
6歳で尋常小学校に入学し6年、高等女学校4年、看護学校3年を卒業するまでに19年間かかります。
きく代が、1942年に国府台陸軍病院に出会うためには、きく代は大正何年に生まれ、昭和何年に看護婦になったのでしょうか。
なお、下水内高等女学校は、歌手の越路吹雪が学んだ学校として知られていますが、越路吹雪は、1936年(昭和11年)に13歳で下水内高等女学校に入学しました。
きく代は1932~1933年に下水内高等女学校に入学したと思われますので、越路吹雪と同じ時期に学んだ可能性があります。
きく代は、いづれにしても越路吹雪の先輩の可能性があります。
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