雪の真宗寺

「破戒」の舞台のモデル「蓮華寺」は「真宗寺」~その「蓮華寺」は下水内郡飯山町愛宕町という設定~
島崎藤村が、明治37年1月13日夕方、千曲川を船で下り飯山に来て、次の日の14日の午前中に中野市側の千曲川右岸側を橇に乗って帰るという忙しい日程で飯山に来たことは、「千曲川のスケッチ」に記されている。

この時の藤村の宿泊先は真宗寺であった。

同行者は小諸の白檮山いそじと三村喜乃であり、二人は明治36年9月から飯山小学校で開講されていた信濃教育会主催の準教員養成のための「三種講習」に真宗寺に下宿して参加しており、年末年始休業明けで飯山に帰るための飯山行きあった。

「破戒」の舞台が飯山の古刹「蓮華寺」であることは、「破戒」発表当時から明らかであったが、「蓮華寺」のモデルが「真宗寺」であることが推測されるようになったのは「千曲川のスケッチ」が発表されてからである。

「真宗寺」は飯山町上町にあるが、「破戒」の中の「蓮華寺」は、下水内郡飯山町愛宕町にあることになっている。

それは

「破戒」

第拾壱章(二)の

猪子連太郞と丑松の~~

『あ、ちよと、瀬川君、飯山の御住処を伺つて置きませう。』斯う蓮太郎は尋ねた。
『飯山は愛宕町の蓮華寺といふところへ引越しました。』と丑松は答へる。
『蓮華寺?』
『下水内郡飯山町蓮華寺方――それで分ります。』
『むゝ、左様ですか。それから、是はまあ是限りの御話ですが――』と蓮太郎は微笑んで、『ひよつとすると、僕も君の方まで出掛けて行くかも知れません。』
『飯山へ?』丑松の目は急に輝いた。
『はあ尤も、佐久小県の地方を廻つて、一旦長野へ引揚げて、それからのことですから、まだ奈何なるか解りませんがね、若し飯山へ出掛けるやうでしたら是非御訪ねしませう。』

会話からも明らかである。

なお島崎藤村が、長編小説「破戒」を自費出版したのは明治38年(1906年)であり、この「破戒」の取材ノートと言える「千曲川のスケッチ」を「中学世界」に連載したのは、明治44年(1911年)である。

つづく