飯山町の船着き場は上の渡し(綱切橋付近)下の渡し(中央橋付近)の二ヶ所

写真は中央橋から

島崎藤村が蟹沢湊から千曲川の「川船」に乗り飯山へ来たのは118年前の明治37年1月13日~
「破戒」で藤村は、その舟のことをこう書いている。
「~川舟は風変りな屋形造りで、窓を附け、ふなべりから下を白く化粧して赤い二本筋を横に表してある。
それに、艫寄(ともより)の半分を板戸で仕切つて、荷積みの為に区別がしてあるので、客の座るところは細長い座敷を見るやう。
立てば頭が支へる程。人々はいづれも狭苦しい屋形の下に膝を突合せて乗つた」
当時、千曲川の客船は日に二回の定期運行であった。
白い帆を張った川船が上下したが、川を遡るときの曳き子は、急流では八人、緩流では四人が必要であった。
飯山の河港は、現在中央橋が架かっている千曲川の左岸に、大きな欅の木があり、そこが飯山港であった。船の発着で港は活気であふれ、「入船亭」という料亭さえあった。
千曲川の通船は第二次世界大戦後の一九四九年(昭和二十四)まであった。
豪雪で鉄道が不通になっても、水量の豊かな千曲川は凍結することがなかったので、一九二五年(大正十四)鉄道が森宮野原駅まで開通した後も、通船は運行されていた。
つづく