原田武子さん(ミス上海にもなった) 井上弘円の4女
井上寂英の長男の弘円には子供が4人~弘子は高野辰之夫妻の養女に~武子は大谷光瑞の秘書に~
飯山再発見のための連載~226
「破戒と飯山&真宗寺」㉑
よしゑの子育て❻
猪瀬直樹が「ふるさとを創った男」の中で言っているように、真宗寺の子育ては「年端のいかない幼女を、全く異なる環境に放り込む」今の時代と比べても、子育てについては相当変わったお寺だったと言える。
長男の弘円が、どこでどういうように学んだかについて書いたものは見あたらないが、大谷光瑞の片腕になり印度仏跡探検隊に加わるほどであるから押してしるべしである。
島崎藤村は、小説「破戒」取材のために飯山に来た時、雪深い奥信濃の貧しい封建的な匂いの漂う古い寺の街の真宗寺が、経済的な自立をめざして下宿業を副業として営み、なおかつ、幼い娘をお寺のお嬢さんとして育てるのではなく、英語を身につけさせるため、教育のために、12歳や6歳の幼いうちに東京に出し他人の飯を食わせるという、今に時代にも考えられないような子育てをする「エラ者」の「よしゑ」にも、藤村は度肝を抜かれたことは間違いない。
なお、井上寂英の長男の弘円には子供が4人いた。
長女は生まれて2ヶ月で亡くなり、次女は登美。実質長女で登美は大お嬢さんと呼ばれていた。
3女は弘子。
祖母である「よしゑ」は、3女弘子が生まれる前に子どもの無かった高野辰之夫妻に「今度女の子が生まれたら養女にくれる」約束し、その約束通り、後に弘子は高野夫妻の養女となる。
長男は弘雄(こうゆう)
4女が武子である。
この武子は、後に大谷光瑞の秘書となり、上海に渡り「ミス上海」に選ばれることになる。
年代が下がってきて、井上弘雄氏は横丁大家の母親と同年であり、武子さんも晩年は夫婦で飯山に暮らしていたので、いづれも顔なじみであった。
つづく