スリナガルからカルカッタへ3500キロもの旅

スリナガルから3500キロもの旅~ブッタガヤ、王舎城の調査を経てカルカッタへ~光瑞、父死すの電報~
飯山再発見のための連載~217
「破戒と飯山&真宗寺」⑭
井上弘円のこと
スリナガルで、2週間ほど滞在して疲れを癒やした光瑞、日野、弘円、本多、薗田などは、
明治35年11月24日、汽車でスリナガルから400km近く離れたペルシャーワルへ向けて出発した。
ペシャーワルとは、パキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州の州都であり、かつて連邦直轄部族地域の行政上の中心地であった。
12月1日には、探検隊員の大半がこのペルシャーワルに集結した。
光瑞の一行は、約2千数百キロ先の仏陀伽耶へ向け出発した。
途中、弘円と上原芳太郎はシバッガリーで阿育王の碑の調査や、ネパールの調査を行いブッタガヤへ向かった。
ブッタガヤは、インド北東部,ビハール州ガヤ南西のシャカ成道の聖地であり、古来巡礼者があとをたたず、かつては大伽藍・大塔があって栄えていた地。
ブッタガヤの調査を終えた光瑞などは、今調査の最大の調査となった王舎城の集団調査を行った。
王舎城は、古代インド、マガダ王国の首都ラージャグリハの漢名。
般若経、法華経などにその名がみえ、釈迦入滅後、ここで最初に仏典の編集が行なわれた。現在のインド北東部、ビハール州のラージュギルにあたり、初期の仏教遺跡が残る。
ブッタガヤから60キロほど離れている。
この調査には、ボンベイ方面の調査を行っていた、藤井宣正も呼び寄せられて合流して調査隊に加わり、大きな役割を果たした。
明治36年1月末、光瑞達はこの調査を終えて400キロほど離れたカルカッタに向かった。
カルカッタには、光瑞の父、明如門主が亡くなった旨の電報が待っていたのである。
明如門主が亡くなったのは、明治36年1月18日であった。
この電報を受け、2月2日、光瑞は隊員を現地に残してカルカッタから帰国の途に着いたのである。
つづく