長野市豊野蟹沢の渡し 藤村「川船」文学碑
藤村の飯山での取材メモが~「破戒」に生かされ~「千曲川のスケッチ」としてまとめられた~
飯山再発見のための連載~198
破戒に描かれる飯山
藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~
「千曲川のスケッチ」と「破戒」
「千曲川のスケッチ」の「序」は、
敬愛する吉村さん――樹さん――私は今、序にかえて君に宛てた一文をこの書のはじめに記すにつけても、矢張り呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。
私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸く今纏めることが出来た。
~
私は信州の百姓の中へ行って種々なことを学んだ。
田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。
到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択えらぶように成った。
~
私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。
大正元年 冬
とある。
「千曲川のスケッチ」は、藤村の小諸生活の7年間の中で、千曲川の川上から川下までをを生々いきいきと眼の前に見ることが出来る。あの浅間の麓ふもとの岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいを嗅かぐような気がする。
と書かれ、その一「学生の家」が始まる。
「千曲川のスケッチ」の中で、千曲川の下流に触れるスケッチが最初に見られるのは、その十「千曲川に沿うて」からである。
藤村は、「~君は私と共に、千曲川の上流にある主なる部分を見たというものだ。私は更に下流の方へ――越後に近い方まで君の心を誘って行こう」
と書いて、白檮山いそじと三村きのと同行して冬の飯山行きをスケッチしている。
「千曲川に沿うて」は、信越線に乗って豊野駅まで下り、豊野から千曲川を下るための渡船場「蟹沢」までをスケッチしている。
そして「川船」では、便船に乗り、「飯山港」まで下る様を書いている。
さらに「雪の海」へ続き、一晩に4尺も降り積るというのが、これから越後へかけての雪の量だ。
飯山へ来て見ると、全く雪に埋もれた町だ。
あるいは雪の中から掘出された町と言った方が適当かも知れぬ。
と、冬の飯山を見事にスケッチしている。
つづく