舟橋の下流に架けられた古牧橋=昭和38年完成

1泊2日の藤村の飯山訪問は、冬の千曲川を下る川船に乗船することが目的の旅であった~
飯山再発見のための連載~195
破戒に描かれる飯山
藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~
4回目の飯山訪問は明治37年1月13日から14日の1泊2日~❿
1泊2日の藤村の飯山訪問は、冬の千曲川を下る川船に乗船することが目的の旅であった。
その体験は、「破戒」第拾弐章に生かされている。
丑松は父親の二七日を済ませ飯山に帰ったが、その時豊野駅から千曲川便船の蟹沢港まで歩き、明治34年に営業を始めたばかりの便船に乗船して真冬の千曲川を下った。
過去3回の飯山取材では、飯山まで歩くか、途中まで車に乗り馬車に乗り換え豊野と飯山間を往復した。
「川船」が運航していることは知っていたものの乗船したことはなかった。
飯山から豊野駅までは約5里である。
千曲川を川船で下る場合は、豊野駅から千曲川蟹沢港まで約一里歩いて川船の乗らなければならない。
「破戒」第拾弐章(一)に~
「~川船の出るといふ蟹沢を指して、草鞋の紐を〆直しめなほして出掛けた。其間凡およそ一里許り。尤も往きと帰りとでは、同じ一里が近く思はれるもので、北国街道の平坦な長い道を独りてく/\やつて行くうちに、いつの間にか丑松は広濶とした千曲川の畔へ出て来た。急いで蟹沢の船場迄行つて、便船は、と尋ねて見ると、今々飯山へ向けて出たばかりといふ。どうも拠ろない。次の便船の出るまで是処で待つより外は無い。それでもまだ歩いて行くよりは増だ、と考へて、丑松は茶屋の上あがり端に休んだ」
とある。

この「破戒」第拾弐章をを書くために、藤村は真冬の飯山への4回目の訪問となったのである。