千曲川古牧の舟橋向こう岸近くの橋げたの下をくぐったか?

「島崎だとは言うな」と固く口止めしたのは~「破戒」に第拾七章の場面を書いたことにあるのではないか~
飯山再発見のための連載~194
破戒に描かれる飯山
藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~
4回目の飯山訪問は明治37年1月13日から14日の1泊2日~❾
「破戒」の第拾七章(六)から(八)の場面~
蓮華寺の奥様が「瀬川さんお勉強ですか」と、入ってくるところから始まる場面は、住職の「女狂い」の記述は事実とは違うと、娘婿である唱歌「故郷」の作詞者である高野辰之が,唖峰生の匿名で,雑誌「趣味」に「破戒後日諏」を書いて,岳父の真宗寺住職井上寂英を弁護し,藤村を激しく攻撃した。
その攻撃に対して~島崎藤村は、
『〜蓮華寺のすべてが写生でないのは、あの物語の成立がそれを目的としなかったからである』
『「唖峰生」氏は、寺の一部の様子は「破戒」にある通りだ。しかしそれは叙景や叙物のことで、人物はまるで違う」と言われたが、門外漢である私が飯山の寺から学び得たことは、寺院生活の光景の外部に過ぎなかった。「唖峰生」氏の「後日譚」を読んで、私は種々知らなかったことを知った。「破戒」は拙い作であるが、あれでも私は小説のつもりで書いた。〜ああいう性質の作物を解して、私が文学の上で報告しようとしたことを、事実の報告のごとくに取り扱われるのは遺憾である」
と雑誌「趣味」に反論している。
ここで藤村が「~私が文学の上で報告しようとしたことを、事実の報告のごとくに取り扱われるのは遺憾である」
と、反論している様に、「破戒」をは、真宗寺と飯山をモデルとしていて、「叙景」や「叙物」はかなり正確に書いているが、人物はかなりの部分が創作であり、飯山の町の名前や店の名前は実際にはあても配置は違う。
読者に誤解を与える部分はあるとしても、藤村が言う様に「小説」なのである。
しかし、蓮華寺の奥様を登場させ、住職の浮気のことを長々と丑松に口説き、離縁をする覚悟である事を妹宛てに手紙の代筆を依頼する~と、書いたことに対して、藤村は、真宗寺に対して後ろめたい気持ちがあったと思われる。
藤村が馬子の様な服装で、二人の女学生と真宗寺に同行し「島崎だと言うな」と口止めした理由はここにあるのでは無いか。
つづく