飯山港の跡の碑 中央橋西

千曲川の蟹沢港~飯山港間の旅客を運ぶ「飯山旅客便船」運航が始まったのは明治34年である~
飯山再発見のための連載~186
破戒に描かれる飯山
藤村は「破戒」執筆のために最低5回飯山を訪れた~

4回目の飯山訪問は明治37年1月13日から14日の1泊2日 ➊
明治37年1月13日、二人の女学生白檮山いそじと三村喜乃とともに、長野市豊野の蟹沢港から川船に乗り、飯山港まで千曲川を下った。
千曲川下流の通船は、江戸時代に始まったといわれる。
飯山市西大滝の斎藤太左エ門は、通船について独占的に許可を得るについて、中野市の代官所に「千曲川通船」の許可を申請し、寛政2年(1790年)に、飯山市西大滝から、須坂市福島までの間の通船許可を得た。
この時、斎藤太左エ門が代官所に出した願書には、
①通船区間は、西大滝から須坂市福島までとする。
②通船は5艘とし、運上永は1貫100文とする。
③千曲川両側縁村々御普請用水堰・渡船場・漁猟場・田畑を荒らさぬこと。
④諸荷物が多くなり増船したるときは運上永を増加する。
などを誓っている。
通船区間が、西大滝からとなっているのは、西大滝が日本海側からの荷物が、牧峠を越えて最短で千曲川まで運ぶことが出来る立地であったことによるもので、運上永というのは、営業税というような税で、一貫とは、1000文。1文25円程。
今の金額で2万5千円くらいとなる。
千曲川を下るのは、流れに乗ればいいが、上るのは人力で引き上げた。
千曲川の片側に2人ず4人の曳き手が、50メートルから100メートルの綱もって船を上流に引き上げた。
両岸に引き上げるための道が整備されていたという資料はなく、両側縁(ぶち)の村々に対し、田畑などは荒らさないようにするという一札を入れていた。
なお、この時代の千曲川は、堤防で囲われてなく、増水時には水路が変わったことなどから、川べりは草木も少なく、歩きやすかったのかも知れない。
13里の航路を7日掛かりで往復した。
なお、船頭の日当は200文。舳竿150文。曳き手が124文と記録がある。
また、西大滝から須坂福島間の塩1俵の運賃は548文だったと言う。
一艘の船は、長さ20メートル、幅3メートル位であった。
この通船は、塩を、米、酒、菜種油、綿、木炭などの上り便が主力であった。

明治34年「飯山旅客便船株式会社」設立
この貨物を中心とした通船に加え、旅客を運搬する目的を持ち、明治34年「飯山旅客便船株式会社」が設立され、蟹沢湊から飯山湊までの運航が始まった。

この「飯山旅客便船株式会社」社長は福寿町の栗山善吉であった。
藤村と二人の女学生が乗船したのは、この「飯山旅客便船株式会社」の船であり、その船は、第拾弐章(三)にあるように~「~風変りな屋形造りで、窓を附け、舷から下を白く化粧して赤い二本筋を横に表してある。それに、艫寄の半分を板戸で仕切つて、荷積みの為に区別がしてあるので、客の座るところは細長い座敷を見るやう。立てば頭が支へる程~」の船であった。
つづく