衆議院議員を務めた島津忠貞翁碑城山公園

小都市飯山から衆議院議員が誕生~第1回・第3回衆議院選挙で飯山町の島津忠貞が当選!
藤村が真宗寺住職から聞いた話~
飯山再発見のための連載~172
藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回 22
島崎藤村が真宗寺の報恩講に合わせた第3回目の飯山取材~藤村は住職井上寂英から、この雪深い飯山から国会議員を送り出していると言うことを聞いたのである。
国会議員に当選したのは、真宗寺と同じ上町居住の島津忠貞であり、寂英は忠貞等と政治結社協心社などを組織し、真宗寺を会場に演説会を開催するなどしていたので、選挙の応援をしていたと思われる。

「破戒」には、代議士である高柳利三郎が天長節で来賓挨拶し、「~檜舞台をも踏んで来た男で、今年もまた代議士の候補者に立つといふ」と書かれているのは第十五章㈡である。
高柳利三郎と丑松は、父の死の知らせを受けて根津村へ帰る途中、蟹沢の外れで出会い、豊野からの列車でも会い、そして根津村の御大尽六左衛門の娘と政略結婚した事を知った。そして高柳利三郎と利三郎の妻となった六左衛門根津村からの帰りの川船の中でも出会ったのである。
丑松は、この高柳利三郎により出自を明かされます。
また、高柳利三郎に対抗して衆院選挙に立候補する市村弁護士と猪子連太郞の関係や、飯山で開かれた市村弁護士の演説会で応援演説をした猪子連太郞が非業の死を遂げる。
選挙の情勢は、猪子連太郞の非業の死により、市村弁護士有利に大きく傾くと、「破戒」には書かれている。
藤村は、真宗寺住職から上町の島津忠貞が国会議員になった経緯を聞き、「破戒」中で猪子連太郞と高柳利三郎、市村弁護士を登場させて書いたが、当時の選挙の仕組み等についてあまり正確には取材していない。
飯山上町の島津忠貞が当選した第1回衆議院選挙が行われたのは、明治明治23年7月1日である。
長野県は、滋賀県・岐阜県とともに東山地方区分され、選挙区は1区から7区に区分けされて、定員は、4区の西筑摩郡、東筑摩郡、南安曇郡、北安曇郡のみが2人で、後は1人定員であった。
1区は、長野市、千曲市なども入る上水内郡、更級郡。
2区が、飯山市、中野市、須坂市も入る下水内郡、上高井郡、下高井郡であった。
3区が、上田市、東御市なども入る小県郡、埴科郡
などとなっており、高柳利三郎が立候補するのは2区であり、市村弁護士が高柳利三郎と選挙をするなら、猪子連太郞の応援を得て小諸や上田などで演説会をする必要はないのである。
したがって、市村弁護士は、猪子連太郞とともに、衆議院選挙で自由民権派の候補者を応援するために上田や小県・小諸など全県下を応援して歩いたとする内容にしなければならなかった。

猪子連太郞が、市村弁護士と飯山の演説会にきたのは、島津忠貞を応援するために来たとするとつじつまが合う。
つづく