インドオリッサの石像美術

西本願寺法主大谷光尊が死去したのは、猊下=光瑞の印度仏跡探検途上~印度に残された宣正達は~
飯山再発見のための連載~142
藤村が飯山へ来たのは4回以上 28                              
格調高い藤井宣正の書簡~「椰子の葉蔭」より
島崎藤村「椰子の葉蔭」全文紹介

二月一日
午後5時、西印度「カチワル」半島の「ドウラ」に着。
先月……王舎城にて猊下に拝別いたせし日。京にては御遷化のことありしとうけたまわり候。驚愕哀傷の至りに御座候。猊下にはひとびとを具して、本日甲谷他=カルカッタより直ちに御帰朝の由に御座候。われらに対しての今後の御命令は出先ゆえに分からず。五・六日内にはボンベイへ引き返し其上にて通信申上ぐべく候。(「ドウラ」より)

藤井宣正が、猊下=大谷光瑞や井上弘円などと王舎城で別れたのは1月17日。
その翌日の明治36年1月18日、光瑞の父である大谷光尊=明如上人が死去した。
この訃報が,印度仏跡探検隊を指揮していた光瑞に知らされ、光瑞が西本願寺の法主を継承するために急きょ帰国したのは3月12日だという。
父光尊死すとの連絡を受けた光瑞は、カルカッタから日本への帰国の途についた。

藤井宣正の今後の行動に対する、光瑞から命令の書簡を見たのは4月14日であった。
つづく