六角堂の中に絵はがき等が保管されていたため大火の焼失を免れた~

藤村は寂英から話しを聞き、日記や絵はがきを読み、そのおおよそを複写した~膨大な作業だった~
飯山再発見のための連載~133
藤村が飯山へ来たのは4回以上 19
真宗寺の「報恩講」に併せての島崎藤村の3回目の飯山訪問であったが、その取材範囲は盛り沢山であった。
特に、藤村の短編小説「椰子の葉陰」に結実した藤井宣正に関する取材は、住職井上寂英からの聞き取りと、宣正が義父寂英宛ての絵はがきや、書簡、そして宣正の日記である「瀛西(えいせい)日誌」(※瀛西=西洋)読破と複写という大作業であった。
「島崎藤村Ⅱ『破戒』~その前後」の著者田中富次郎氏はその著作の中で、「椰子の葉陰」の内容と、瀛西日誌・絵はがきなどを比較照合した結果をまとめているが、「椰子の葉陰」は、宣正の絵はがきや書簡を並列式に並べただけのものではなく、それらを忠実に再現しつつ、物語としてまとめられているという。
「~作品のほうは、⒌月5日の第14回書信から最後の5月12日第17回書信までが、クライマックス。したがって、記述量も多いが、日記のほうは、作品と正反対。
日付のある記述は、5月5日が最後。しかもこの日の記述は、姉崎(印度仏跡探検隊の一員)が』帰国するときの乗る予定の備後丸が入港したことと、その船の事務長の名と、因幡丸が英国へ着く予定日「6月3日ロンドン着」と、僅か一行のメモだけで終わっている。
このかすかな鉛筆のあとが、宣正日記の最後である。
富次郎氏は、藤村が取材したすべての「絵はがき」や.書簡を見たわけではないので、断定はできないが、
「~日記がこんな風であるから、おそらく宣正の便りも、次第に少なくなっていったと思われる。だから、実際には、藤井宣正の最後を語る材料は乏しいのであるが、「椰子の葉陰」が終末になるにつれて記述量が多いというのは、藤村が僅かな素材の中へ、自分の生活感情を盛んに投げ入れているからである」
と、田中氏はまとめている。
そして、「~井上寂英から聞いた話や、絵はがきなどを見ることにより、「椰子の葉陰」にまで結晶したということは、それが「新人物」猪子連太郞のイメージを生み、「破戒」の主題を生む要素となっただけでなく、「破戒」の舞台を飯山に展開したことの大きな力になっていると言いたい。
と述べている。
藤村は、寂英から話しを聞き、日記や絵はがきを読み、そのおおよそを複写したのだが、かなりの時間を要したことだろう。
つづ