島崎藤村千曲川のスケッチ「川船」碑 蟹沢付近

「明治37年1月と、その年の初秋」の他に~明治37年以前の初秋のころにも飯山へきている~
飯山再発見のための連載~116
藤村が飯山へ来たのは4回以上 2
島崎藤村が「破戒」の取材のために何回来たのか?
通常言われているのは2回である。
その2回とは、明治37年1月と、その年の初秋に丸山晩霞と来た時の2回だとしている。
そして、その根拠は、いづれも明治44年雑誌「中学世界」に藤村が発表した「千曲川のスケッチ」により推測しているのである。
この「千曲川のスケッチ」は、藤村が小諸義塾の英語の教師になってから、千曲川に沿って歩いて体験した事柄をまとめた短文集であるが、藤村はこの「千曲川のスケッチ」の中で、飯山に関連した文章を6編書いている。
それは、千曲川のスケッチ
その十に、「千曲川に沿うて」「川船」「雪の海」「愛のしるし」「山の上へ」5編
その十一に、「山に住み人々の一」

である。
この6編は、いずれも藤村が飯山へ来る途中や、飯山で体験したり聞いたりしたことがまとめられておりほぼ事実が書かれている。
そして、「千曲川に沿うて」は1月13日と日付もはっきりしている。
ここでは、明治何年かは書いてはないが、明治37年であることが藤村の年譜などで明らかになっており、白檮山いそじと三村喜乃の少女と一緒に信越線で豊野まで来て、千曲川を下る川船の港の蟹沢まで歩いたのである。
豊野駅からJR飯山線立ヶ花駅近くの蟹沢の港までの道のりは約4kmである。
この豊野駅から蟹沢までの間の「~ある村の坂のところへ掛った。そこは水内の平野を見渡すような位置にある。私が一度その坂の上に立った時は秋で、豊饒な稲田は黄色い海を見るようだった。向の方には千曲川の光って流れて行くのを望んだこともあった。遠く好い欅の杜を見て置いたが、黄緑な髪のような梢からコンモリと暗い幹の方まで、あの樹木の全景は忘られずにある」と書かれている。
「水内の平野」の「水内」は、下水内のことで、飯山地方のことである
豊野から蟹沢の間に「水内」の平野を見ることが出来る場所は思い当たらないが、明治37年1月13日以前に、「豊饒な稲田の黄色い海」を見る事が出来る時期に飯山方面に来たことになる。
ここで、「明治37年1月と、その年の初秋に丸山晩霞と来た時の2回」の明治37年1月以前に1度飯山に来ていることになる。