現古牧橋付近にあった船橋

古牧橋

島崎藤村と丸山晩霞が休んだ~千曲川のスケッチ「山に住む人々の一」の「休茶屋」はどこか(一)
飯山再発見のための連載~86
小説「破戒」の舞台と飯山 28
島崎藤村が「破戒」執筆の取材のために飯山へ来たのは最低でも3回。
整理すると
1 豆粟(まめあわ)等の畑の熟する頃  千曲川のスケッチ 「川船」
2 川船で千曲川を下り飯山に来て真宗寺に泊まり、翌日千曲川中野市側を橇で帰った時(明治37年1月13日に来て、翌日14日に橇で帰った) 千曲川のスケッチ 「山に住む人々の一」
3 「静間平を通り、ある村はずれの休茶屋」で休んだ時 千曲川のスケッチ 「山に住む人々の一」
3回目に飯山を訪れた時には、画家の丸山晩霞(千曲川のスケッチでは画家B君)と同行していました。

千曲川のスケッチ 「山に住む人々の一」
「~以前私が飯山からの帰りがけに――雪の道を橇(そり)で帰ったとは反対の側にある新道(しんみち)に添うて――黄ばんだ稲田の続いた静間平(しずまだいら)を通り、ある村はずれの休茶屋に腰掛けたことが有った。
その時、私は善光寺の方へでも行く「お寺さんか」と聞かれて意外の問に失笑した事が有った。
同行の画家B君は外国仕込の洋服を着、ポケットに写生帳を入れていたが、戯れに「お寺さん」に成り済まして一寸(ちょっと)休茶屋の内儀(おかみ)をまごつかせた。私が笑えば笑う程、余計に内儀は私達を「お寺さん」にして了(しま)って、仮令(たとえ)内幕は世俗の人と同じようでも、それも各自の身に具(そなわ)ったものであることなどを、半ば羨(うらや)み、半ば調戯(からかう)ような調子で言った。
この内儀の話は、飯山から長野あたりへかけての「お寺さん」の生活の一面を語るものだ。


この、「静間平を通り、ある村はずれの休茶屋」がどこにあったかについては、二通りの説があります。
一つは、飯山市と中野市を結ぶ千曲川に架けられた橋である古牧橋の付近にあった「休み茶屋」です。
千曲川のスケッチに、
「~静間平を通り、ある村はずれの休茶屋」とあり、静間村の隣村の蓮村の村はずれの千曲川沿いの「休茶屋」が、藤村と画家の丸山晩霞が休んだ「休茶屋」なのだと言う説です。
この「休茶屋」があった千曲川には、飯山と中野を結ぶ船橋があり、藤村と晚霞が小諸に代える時に立ち寄った「休茶屋」だというのです。
この説は、古牧橋の近くで、先祖が「休茶屋」を営んでいたと言う人などを含めて、歴史好きな地元の人達がまとめた郷土史の本にも書かれ、通説となっていました。
つづく