雪の飯山 市ノ口

保科百助~飯山小着任一ヶ月にならないのに~信濃教育会支部設立総会で2つのテーマで発表~
飯山再発見のための連載~66
小説「破戒」の舞台と飯山8
白檮山いそじが「~島崎藤村先生の小説「破戒」を拝見した時、破戒の主人公の丑松さんは,清水先生をお書きになられたものだ」とすぐにに分かった。
と、言っていること.
清水謹冶も、「~破戒は、自分が島崎藤村に話してやったことで構成されている」と、述懐していていいた。
白檮山いそじが「破戒の丑松が清水謹冶だと思った」と
清水謹冶が「破戒は、島崎藤村に話してやったことで構成されている」
と述懐していることは、同じことのように見えますが大きく違うと思います。
白檮山いそじは、丑松のモデルが清水謹冶だと思い、清水謹冶は、自分が藤村に話した内容で破戒が構成されている」と言っているのです。
~今書いているのは、清水謹冶が、島崎藤村に話した内容を考察するために、当時の背景をまとめています。
清水謹冶が藤村に話したことは、飯山時代の保科百助と清水謹冶が体験した真宗寺のこと、飯山尋常小学校の事だったのではないかと思っています。

皆学制の教育制度定着の途上にあったこの頃、学校現場では教員の資質向上をめざすために「教育学」「管理法」「教授法」などを中心に研修会が盛んに行われていました。
下水内高等小学校が、飯山町に新築されたのは明治24年9月。
保科百助と清水謹冶が、飯山尋常小学校が勤め始めた年の開校でした。
このように、激動の時代に、二人は教師生活をスタートさせました。
また、下水内郡下の教員により、明治19年に結成された「下水内教育談会」が、明治24年3月、県的な組織である信濃教育会の支部となりました。
この信濃教育会支部の初めての総会が、保科百助が学んだ長野師範学校長であり、信濃教育会長である浅岡一を来賓に迎え明治24年6月4日に開かれました。
この支部総会は、教員の研修会も兼ねて開催され
教育勅語について  浅岡 一
附属小学校参観報告 湯本 法琳
読本の中の文字についての疑点二つ 保科 百助
教育勅語下賜一周年にあたって 宮本 貞夫
生徒の実力(学力(について 関 笹吉
物みなその平を得よ 外谷 与五兵衛
教員禁酒の必要 保科 百助
本郡教育の不振打開策について 滝沢 重蔵
の講演や、研究発表、提案などが行われました。
保科百助が飯山尋常小学校に着任したのが5月中旬。
信濃教育会下水内支部総会が6月4日、着任から一ヶ月にもならないのに、2つのテーマで、しかも浅岡一長野師範学校長の前での発表でした。
代用教員清水謹冶の眼に保科百助はどう映ったのでしょうか?
なお、浅岡一は、福島県二本松市出身。明治6年文部省出仕。
広島師範・東京女子師範等に勤め、明治19年和歌山県学務課長から、長野県尋常師範学校長兼学務課長となり、
さらに同7月に発足した信濃教育会の初代会長となった信濃教育の恩人とも言われている人です。
保科百助が、長野師範学校4年を留年の危機に退学を覚悟した時に、浅岡一がこれを許さなかったことにより、教師百助が誕生したことになり、百助の恩人にもあたる人でした。
つづく