「保科五無斎」蒐集の長野県地学標本

「保科五無齋」が採集した長野県下の岩石の標本「長野縣地学標本」は飯山北高校へも頒布
保科百助と飯山~飯山再発見のための連載~2
井出孫六の「石の狩人 保科五無斎」は、リブロポート社の「シリーズ民間日本学者」のうちの一冊です。
「保科五無齋」は、本名は保科百助。
明治時代の長野県の鉱物・岩石の採集など実物や実験を重視した先駆的な地質学者です。
「保科五無斎」は、長野師範を卒業して10年間長野県下で破天荒ともいえる教師生活をした後、信濃路漫遊の旅と称して、長野県下の山々を巡り、「石屋五無斎」と染め抜いた法被姿で、鉱物採集の旅にでたと言います。
本の題名の「石の狩人」は、鉱物や岩石の採集家であることから採られたものです。
保科百助は、1868年(明治元年)、北佐久郡横鳥村(現在の立科町)生まれ。
1891年(明治24年)長野師範学校(現在の信州大学教育学部)卒業後、県内各地の小学校の教師を歴任し、そして、明治34年(1901年)蓼科小学校長を最後に教師生活に別れを告げました。
この保科百助が、長野師範学校を卒業した後、最初に赴任地したのが飯山尋常小学校であり、百助が下宿したのが島崎藤村の小説「破戒」の主人公「丑松」が下宿した蓮華寺=真宗寺に下宿したとのことです。
長野県地質学学会「地学部会」編の「長野県の地学」には、保科百助」の項があり、このように書かれています。
「~百助の教育法は、実物や実験を重視し、子どもの自発性を尊重して、学ぶことの喜びを自ら見出させようとするものだった。
その傍らで在職中から鉱物岩石の採集に努め、地質学の研究家としても有名であった。 
小学校長として赴任した際、白ズボン、白シャツ麦藁帽子、ハンマー、雑のう携帯の鉱物採集スタイルで現れ、村民を驚かせるなど、奇行に富んだ人と もいわれているが、部落差別の撤廃と同和教育に力を尽くし、貧困家庭の子弟のために私塾を設立した。
また、信濃図書館(県立図書館の前身)の創設にも功績があった。
これら以外にも、百助は絹織物や養蜂、染色技術などの実業教育による地域振興への取り組みについつも先駆者であった。
明治33年、北佐久郡蓼科高等小学校に校長として赴任、蓼科実業補習学校(蓼科高校)の校長を兼任するも、たった1年で辞し、その後鉱物大採集のため県下漫遊の旅を開始し採集した岩石を、明治36年(1903年)「長野縣地学標本」として県下の103の学校に頒布した」
「長野県地学標本」は、旧飯山北高校にもが頒布されたとのことです。