正受庵は、江戸の至道庵・尾張犬山の輝東庵と並び、菩提を弔わない寺〜天下の三庵
酒井盤山和尚の講話「正受庵」 ⑦
恵端さんが35歳の時、恵端さんの師匠の至道無難禅師が74歳で亡くなりました。そこで恵端さんは自分の一生仏道を行う場所、同時に又自分の死に場所をこの飯山に定めた様であります。
これはいろいろと考え方がありまするが、母親がいたためだろうとも考えられます。そしてこの現在の地に正受庵という小さな庵を建てまして修行に入られたわけであります。
「ここより恵端さんを正受老人と呼ぶことにしましょう。)
飯山の帰りまして正受老人を非常に喜ばれましたのは、当然母親でありましょう。又、飯山藩主の松平忠俱公も非常に喜ばれまして正受老人の弟子になりました。又、松代に帰っておられました母親も正受庵にお迎えいたしまして頭を剃髪し尼僧として自分の弟子にいたしておるのであります。
お経の中に、自分の親を出家させることが出来たら最高の親孝行であると言う言葉がありまするが、正受老人はまさにお経を実行するようなことををこの茅庵でなされたわけであります。
ここはそういう意味で、菩提を弔うために建てられたわけではなくて、最初から修業を目的として建てられた寺院でありまする。
徳川のこの頃、江戸の至道庵と、飯山の正受庵と、それから尾張犬山の輝東庵を菩提を弔わない寺として天下の三庵と呼んでいたのでございます。その中の一つがこの飯山の正受庵であります。
つづく