手前の石が坐禅石 栽松塔は正受老人のお墓です
正受庵の宝物〜正受老人「坐死の」の真筆が〜正受庵寺宝展で公開〜10月5日〜6日
坐死
末後一句
死急難道
言無言言
不道不道
坐死
末後一句
死急難道
言無言言
不道不道
坐して死す
末後の一句
死急にして道(い)い難し
無言の言を言として
道(い)わじ道わじ
あまりにも急に死がやってきて、末期の一句をしたためようとしたが難しい。
もう何も言うことができない。
このまま黙って、沈黙のまま、自分の無言を末期の一句としよう。
言うまい。言うまい。
末後の一句
死急にして道(い)い難し
無言の言を言として
道(い)わじ道わじ
あまりにも急に死がやってきて、末期の一句をしたためようとしたが難しい。
もう何も言うことができない。
このまま黙って、沈黙のまま、自分の無言を末期の一句としよう。
言うまい。言うまい。
有名な正受老人の遺偈(ゆいげ)です。
正受老人は臨済宗中興の祖「白隠」の師。
白隠が居なかったら、今の臨済宗はなかったと言われて言われています。
正受老人はこの遺偈をしたためた後、坐禅石の上で座禅をし、大笑してそのまま入寂したと言われています。
この「遺偈」が発見されたのは明治16年のことです。
発見したのは、幕末の三舟の一人高橋泥舟
幕末の三舟と呼ばれるのは、幕末から明治にかけて活躍した「勝海舟」「山岡鉄舟」「高橋泥舟」のことを言います。
幕末の三舟と呼ばれるのは、幕末から明治にかけて活躍した「勝海舟」「山岡鉄舟」「高橋泥舟」のことを言います。
いずれも名前に「舟」がつく侍です。
その三舟の一人、山岡鉄舟は、明治の初めの頃、臨済宗の中興の祖白隠が学び悟りを開いた正受庵が、廃庵になっていることを聞き心を痛めていました。
その三舟の一人、山岡鉄舟は、明治の初めの頃、臨済宗の中興の祖白隠が学び悟りを開いた正受庵が、廃庵になっていることを聞き心を痛めていました。
山岡鉄舟は侍従として長野へ
鉄舟は、明治11年、明治天皇北陸巡行幸に従って信濃路を巡りましたが、自分は天皇の傍を離れることが出来ないため、人を頼んで廃庵になってしまっている正受庵をの調査をしてもらいました。
鉄舟は義兄の高橋泥舟に正受庵の再検分を依頼
正受庵の現状を知り、一層心を痛めた鉄舟は、明治16年には、鉄舟の義兄高橋泥舟に頼んで正受庵のより詳しい検分をしてもらいます。
日本の石油王石坂周造は飯山出身〜高橋泥州の義弟
日本の石油王石坂周造は飯山出身〜高橋泥州の義弟
因みに、日本の石油王と呼ばれ、飯山桑名川出身の石坂周造の奥さんも高橋泥舟の妹です。
石坂周造は、あじさい寺で有名な高源院で小僧をしていました。
泥舟は、義理の弟鉄舟の依頼を受けて、正受庵に来て正受庵を調べました。
その時、見つかったのが、この正受老人の遺偈「坐死」の他、正受老人の絵姿などでした。
その遺偈「坐死」などは、泥舟が江戸に持ち帰り表具をし、遺偈「坐死」などを桐箱に入れ、箱の蓋に発見のいきさつを書いて正受庵に戻してくれました。
泥舟は、義理の弟鉄舟の依頼を受けて、正受庵に来て正受庵を調べました。
その時、見つかったのが、この正受老人の遺偈「坐死」の他、正受老人の絵姿などでした。
その遺偈「坐死」などは、泥舟が江戸に持ち帰り表具をし、遺偈「坐死」などを桐箱に入れ、箱の蓋に発見のいきさつを書いて正受庵に戻してくれました。
鉄舟は自ら飯山へ訪れ正受庵再興に尽力
その後、鉄舟は、自ら飯山を訪れ、正受庵再興のために、自ら高額の寄付をし、書を揮毫して募金活動を行い、正受庵の再興のために尽力されました。
奥信濃に山岡鉄舟が揮毫した書が多いのは、正受庵の再興のための書でもあります。
奥信濃に山岡鉄舟が揮毫した書が多いのは、正受庵の再興のための書でもあります。