高野辰之と妻鶴枝 結婚当時

高野辰之夫婦には子供がなかったので、妻鶴枝の兄弘円の3女弘子を養女に迎えます。
猪瀬直樹の「ふるさとを創った男」の中で、高野辰之が弘円の3女を養女にした時のことを、鶴枝の妹の原田武子が猪瀬直樹にこんなように語っています。

原田武子〜大谷光瑞の秘書として上海に渡り ミス上海となる〜

原田武子は、弘円の4女になります。

弘円は、大谷光瑞が編成した大谷仏跡探検隊=シルクロード探検に参加しています。
武子「姉の弘子は、3女なんです。長女は生まれて2ヶ月でなくなりましてね。次女が登美、登美姉さんは大お嬢さんtぴょばれてました。弘子姉さんが生まれた時は、祖父も祖母もがっかりするんです。跡継ぎの男の子が欲しかったのに、また女かってね。」
武子「姉の弘子は、明治42年2月12日なんです」
武子「その4月に、高野辰之のお母さんが亡くなり、そのお母さんのお葬式に永江に戻った辰之おじさん夫婦が寺に泊まったんです。弘子姉さんが辰之おじさんの養女になるきっかけはこの時だと思います」
武子「よしえお祖母ちゃんが、次の子供も女だったら、養女にあげると約束したらしいの。鶴枝おばさんとの間でかってにね」
弘円の妻、つまり、弘子や武子の母は、新潟の本願寺系の寺から嫁いできたのは明治33年17歳の時でした。姑は男勝りと言われた「よしえ」であり、嫁の発言権は弱かったようです。
辰之夫妻は、祖母との約束通り弘子を養女にもらいに来ました。
武子「わたしの母、とってもかわいそうでした。祖母にしてみれば、子供のいない娘に孫を配分したぐらいのつもりだたのかも知れないけれど、母にとっては自分の腹を痛めた子供でしょ」
つづく