改修工事が終わった正受庵参道~蹴落し坂(白隠が正受老人に蹴落とされたという坂)

古田先生が私たちに残してくださったもの……⑨  
古田十一郎先生は、大正13年(1924年)飯山市愛宕町に生まれ、長野県立長野商業学校で学び、鉄道省長野工場で働きました。長野商業在学中に短歌集団「アララギ」に入会し、作歌及び万葉集に打ち込んだ歌人~平成17年6月15日に亡くなられました。
晩年の古田先生から、お聞きしたことを書く聞き書き「愛宕山房随聞記」です。

土田耕平の飯山の短歌
諏訪で生まれたアララギの歌人であり、童話作家であった土田耕平は島木赤彦の紹介で飯山へ療養に来ています。
土田耕平は、下諏訪小学校に勤務していた時、島木赤彦と出会い、以後師事して歌を「アララギ」に発表しました。
不眠症、胃腸病、心臓症、腎臓病などを患いながらも、アララギや信濃毎日新聞歌壇の選者などにも当たった歌人です。
療養のため伊豆大島に渡り、その後は、諏訪、伊那、飯山、須磨、明石、大和郡山など転居すること30数回に及び「漂泊の歌人」などとも言われました。
土田耕平は、島木赤彦と同居してアララギの編集を手助けしたこともあったこともあり、島木赤彦が、飯山の無二の親友清水謹治に紹介してもらい、飯山の妙専寺で約3ヶ月療養生活を送りました。
土田耕平は飯山で療養生活を送りながら、飯山の歌や詩を多く残しています。
飯山にて          
きはだちてふかき峯とてあらなくにこの地のすがたわれは親しむ
木ずゑふく風あらあらし鳴く蝉の声はまぎれてまた聞かざらむ
千曲川板橋長しふりさけて越後境の山見ゆるかな
木の間には雨の雫のしげくして向こうの山に雪ふりにけり
仰ぎ見る空の色ふかしこの町に雪の来む日は近づきにけり
国境の山低くしてつらなれり北に落ちゆく千曲の河みづ
奥ふかく何かこもれるものありて北国空は澄みゆかぬかも
                                            (歌集「斑雪」)
飯山正受老人の墓にて
この下に夢やたふとくおはすらむ年古りてゆく石ぶみの文字
さみだれのこの降る雨にけだしくも現はれにけり石ぶみの文字
うつしみの命のうちに何ごとも覚りたまひてここに眠らす
早咲きの萩の一枝よこの石にあぐみましけむ古のひと(座禅石)
千曲川ながれて遠しこの丘は恵端禅師のおくつきどころ
                      (大阪毎日新聞)
妙専寺にて  
朝顔はさかりすぎしと思ひしにこの朝ごろの花の多さよ
  寺の姨よりもらひうけしと思ひし数珠を弄びつつ思ひつづくりことあり
かにかくに人のなさけに我生けり手にとりて見る数珠の一房
                                           (「アララギ」大正12年11月号)
なお、清水謹治を通じ土田耕平を病気療養のため神明町の妙専寺を紹介した島木赤彦は、土田耕平飯山に病みて未だ帰らずとう一連の歌を残しています。
土田耕平飯山に病みて未だ帰らず            島木赤彦
人ひとり旅にこやりてかへり来(こ)ぬ今年の秋は心寂しき
遠国(とおくに)に病みてこやれる人のために袷を送るころとなりにし
北空の山をへだててある人を心に思ひ行くこともなし
飯山の丘はわれ知る北にゆく流れに向かひ一人かもあらむ
玉きはる命かよわし久びさに橋つきにける玉章(たまずさ)の文字
                                                    (歌集「大虚集」)
また、土田耕平を妙専寺に見舞うため、多くの歌人が飯山を訪れましたが、
高田浪吉が「信濃飯山町にて」という歌を残しています。
信濃飯山町にて                                                   高田浪吉
蜩の(ひぐらし)のこゑひとしきりきこゆなり夕べとなれる高槻(たかつき)のむれ
仰ぎ見る高槻の梢(うれ)のをぐらきに啼きをやめざる蝉のこゑごゑ
この町に着く汽車の音の稀にして青葉がくりにひびき渡りぬ
                                                   (歌集「川波」)
土田耕平には、この他に「北国街道」「飯山」などの詩があります。
                           (続く)