ドン・デリーロ『マオⅡ』(渡辺克昭訳、本の友社、2000年)読了。
ドン・デリーロはこのほど水声社から新たにコレクションが刊行され始めた。これは『マオⅡ』(1991)の20世紀最後の年に刊行された旧訳だが、新版も同じ訳者なので訳もほぼ同じと思われる。
テロリストの暗躍、サリンジャーを下敷きにした人前に出ず半ば偶像化した作家、情報化しメディアに支配される社会、カルト集団統一教会の合同結婚式、ニューヨークの空に聳え立つ威圧的なツインタワー。むろん原作も邦訳も9.11とそれ以降のことなど予想だにしていないが、その先見性は見事と言うしかない。断片的な情報に飛びつき消費する群衆、指導者を盲信し熱狂する集団。いずれも21世紀の今日嫌と言うほど見せつけられる光景そのものだ。
作家は自分の肖像写真を撮影する女性写真家と言葉を交わす。
「こんなふうに撮られてると、何だか自分の通夜に居合わせたみたいな気がするな。(…)肖像写真ってものは、被写体が死んではじめて意味を持ち始めるんだ。(…)僕が死のなかへ埋没すればするほど、僕の写真は強烈さを増すことになる。だからこそ、写真撮影ってものは儀式ばったものになるんじゃないのかな、通夜みたいに。てなわけで、僕は死に化粧を施された役者なんだ」(p. 48)
「(…)君はそうやって撮っていくうちに僕を創り上げていくんだろうか?それとも、僕は自分自身を模倣しているんだろうか?(…)」(p. 49)
「(…)忘れちゃだめよ。あなたの写真が世間に出た瞬間から、あなたはその通りの風貌をしてるって思われるのよ。だから、あなたがどこかで誰かに会って写真と違ってたりすると、そんなはずはないって抗議されるわ」
「僕は誰かの素材になっちまったのさ。ブリタ、君の素材にね。現実ってものがある一方で、メディアによって消費される出来事ってものがある。僕たちのまわりのすべてのことが現実を導いて、紙やフィルムの上に定着する何かしら究極の現実みたいなものの方へと向かわせるんだ。(…)一切のことがそれ自身の最高の表現を求めるようになってるんだ。あるいはこんなふうに言ってもいい。消費されるまではどんな出来事も起こらないってね。あるいはまた、こんなふうに言ってもいい。自然はアウラに屈してしまったってね。ある男が髭を剃っていて顔を切ったとしよう。すると誰かが早速契約を結んでその事件の顛末を書くわけだ。現実のすべての事柄は輝きを帯びるように導かれるんだ。今ここに、君のレンズのなかに僕がいる。そこで僕はもうすでに僕自身を違ったふうに見てるんだ。自分が二人になったような、さもなくば一世代隔たったもう一人の自分になったような」(p. 49-50)
まだタイプライターで執筆する作家に向かってテロリストの代理人である男が「ワープロ」を使うべきだと盛んに勧めるシーンなど笑ってしまう。デリーロもワープロを使っているのだろうか。