読了本3冊。
高原英理は優れた幻想作家であり、評論家でもある。アンソロジーや選集の編纂にも手腕を発揮しており、その一冊が『川端康成異相短編集』である。2022年 中公文庫
以下編者解説の引用。
「川端康成の小説作品には多かれ少なかれ、現世界への平均的な認識に従わない、通常と異なる相を感知していると読めるところがある。しかもその只ならなさがあってこそ作品の主題が生かされている場合がしばしばである。こうした特徴が特によく発揮された作品を集め、一冊とした。これらを異相の短編と呼んでみたい。」
「こうした作品に結実する特異性は川端の文壇登場の頃から全生涯にわたって具わっていたように私には思われる。彼がその初期、モダニズムという人為的・反自然主義的手法によって書こうとしたのは、「常の認識」として「世」が決めてくる因果や関係性の上での軽重と序列、その当たり前らしさを否定したためではないだろうか。また一時期(それは当時の流行によったものでもあるが)「心霊」という、この世の外にある法則を認める語り方を採用したのも「常の認識」の浅薄さに強い反発を感じていたからではないだろうか。」
「今回は…飽くまでも川端康成という作家にうかがわれる内的な必然性、その独特な認識の帰結としての、常ならない相=「異相」への凝視の度に添って作品を選択した。/収録作には広い意味での「幻想小説」と見受けられる作品も多いが、右の理由から幻想的であるか否かを基準としてはいない。…飽くまでも小説内の磁力とでもいうべきものに注目した。そこには認知の歪みのようなものがあり、有体に言えば過ちでもあるような論理が、むしろ語られることの痛切さを際立てている。/三島由紀夫による評論『川端康成の一方法―「作品」について』に、川端の作品について「完璧な誤謬を通ることなしには真理と対峙しえぬという芸術の秘儀」とあった。この言葉が当作品集の指針である。」
巻頭の『心中』はわずか2ページしかない掌編なのに、凡百のホラーやファンタジーなど足元にも及ばない不条理な奇怪さに満ちている。ほとんどマザーグースかグリム童話、はたまた小川未明の残酷童話であってもおかしくないような筋立て。家を出て行った夫から妻の元へ次々に手紙が届く。「子供にゴム毬をつかせるな。その音が聞えて来るのだ。その音が俺の心臓を叩くのだ」「子供を靴で学校に通わせるな」「瀬戸物の茶碗で飯を食わせるな」と段々エスカレートする理不尽な要求に妻は忠実に従うが、最後の手紙が届く。「お前達は一切の音を立てるな。…呼吸もするな。」
再度引用
「この『心中』こそ川端の異相の感受、認識を最もよく示す掌編であると今思う。発表は一九二六年、『伊豆の踊子』とほぼ同時期」「この作品の構造がどうしてどうなっているのか「ひらたく」因果論的に、言わば自然主義的に説明することが難しい。我々の住まう時空間では成り立たない距離、構造があり、視覚聴覚の特異な歪みがあり、特に聴覚の超越の有様が叙述される。ただしそこに読み取られるのは別世界や幻想の出来事ではなく、確かに現世界での(決して稀な事とは言えない)ある悲劇であり、その現世界を常とは異なる相から、あるいは別次元から眺め語ったものであるかのように私には思われた。」「ここで何より強く受け取られるのは生自体の不条理ゆえにある切実さ悲痛さであって、その切実さ悲痛さが現実的な因果の枠組みや順序立てを放棄した語りによって究極の境地に達しているということである。それは語ろうとしてもなかなか難しい生の不可解さの手触りであり、『心中』は語られる時空間の著しい歪みによってその手触りを描き得た作品と言える。抜き差しならない「真」を伝えるための歪み、別の相によって達成されるリアリティの根拠をここで異相と呼ぶのである。/こういう作品の危うい構造はときに詩人の言葉に見出されるものだが、ぎりぎりのところで『心中』は「小説」として成立している。その短さはこのように無理な構造がこれ以上の時間の長さには耐えられないことの結果でもありそうだ。」
「異相をとらえる川端の言葉は否応なく死にかかわるものが多いようだ。それは死の世界から現世界をうかがうような視線によるのかとも思え、あるいは死に接近する暗く不明な何かを探るとき得られる感触の表現と言えるかも知れない。」
『心中』と同様の死の寓話『赤い喪服』『犬』、遠く離れた地での父親の死を幻視する娘の登場する『白い満月』、死者が生きている友人と不可思議な会話を交わす『地獄』、ヘリコプターに乗って故郷の村を訪れる夢の記録『故郷』、同じく蛇の登場する奇妙な夢を描く『蛇』。『離合』『冬の曲』もまた死者の記憶に囚われた人物が登場し、関わった女の死体を解剖用に売り渡す『死体紹介人』はネクロフィリアとブラックユーモアの入り混じった作品。『朝雲』は女学生が美しい女性教師に憧れを抱く少女小説の王道だが「『選ばれるのはしかたがないわ。人間ですもの。私達は、選ばれて、選ばれて、生きてゆくのだわ。』と、あの方は白い顔でおっしゃった。私はどきっとした。あの方の首からあごの下のあたりをお傍で見上げながら、あの方の美しさが私を刺し貫くように感じた。」のような文章を読むと、「ここには視線の奇跡というべきものが達成されていると言おう」(編者解説)という言葉にも頷ける。別れた恋人の髪の毛をあちこちに結び、眼鏡のような輪にしてその思い出の王国を作ろうとするフェティシズムに溢れる『毛眼鏡の歌』は「なにやら執念深いストーカーのようで気持ちが悪いと受け取られてもおかしくない。それでも彼の心の求める先は果てしなく清らかで美しかるべきものなのだ。この構造は『朝雲』とも同じであり、…忌まわしさとともにある美への渇仰にも通ずる。」(同)
作家の香住が家を訪ねて来た見知らぬ婦人客から「昔若いころ、九州の弓浦市であなたにプロポーズされた」「自分が生んだ子は実はあなたの子ではないか」と告げられるが全く記憶になく、弓浦という市も存在しないという『弓浦市』は「香住は婦人客の話を半信半疑で聞きながら、記憶を探していた、自分の頭もおかしい思わないではいられなかった。…香住自身には忘却して存在しないが、他人に記憶されている香住の過去はどれほどあるか知れない。香住が死んだ後にも、今日の婦人客は、香住が弓浦市で結婚を申しこんだと思いこんでいるにちがいないと、同じようなものだ。」と語り、同様に『めずらしい人』も記憶の不確かさ・不可思議さを描き、不可解な存在としての他者を浮き彫りにする。病気で半身不随となり言語能力を失った作家との対面で「『他者の心の不可知』をさらに徹底して描いた」(編者解説)『無言』は「もはや人には計り知れぬそのほの暗い向こう側を、しかし我々は、あるとき覗き見ようと思わないではいられない。」(同)、故人の形見である勾玉の音が「『生と死のあいだに通うささやき』であるとともに現相と異相とをつなぐよすが」(同)となる『たまゆら』も同様。
最後に3編の随筆『感情』『二黒(じこく)』『眠り薬』が置かれ「私は非常にあわてた。生きている値打のない恥ずべき人間なのであろうと疑ってみた。自殺しようかとも一寸考えた。失恋の悲しみの為めではない。失恋が悲しくない為めである。私の感情と云っていいか、私の生活と云っていいか、とにかく私の何かが全然破産しているのではないだろうか。生きているのに大切なものを失ってしまっているのなら、生きていても仕方がない。」「極端に云えば首切人とでも私の首が切られる一分前まで虚心で談笑して仲良く飯が食えると云う自信は持っている。」(感情)「運命というものが絶対にないとすれば、この世は生きるに余りに恐ろしいであろう。」(二黒)のような箇所はやはり「異相」を感じさせる。
『猿』京極夏彦 KADOKAWA 2025年
https://ddnavi.com/article/1318753/a/
『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』
ALT236著 佐野ゆか訳 フィルムアート社 2025年
近年またホラーブームの隆盛が続く中、この2作は新たな視点からホラーの在り方に光を当てる。
まず京極夏彦『猿』はいかにも流行に乗った小説のように見せかけて実は極めて批判的な視点から恐怖を論じる、ホラーに対するアンチテーゼとしてのいわばメタホラー、アンチホラーとも言うべきユニークな作品である。主人公の若い女性祐美は隆顕と同棲中だが、彼はコロナ感染の後遺症でまともに働けず引きこもりとなってしまう。神経質で身勝手な相手との生活に疲れ果てた祐美の元に、岡山県の山奥で暮らしていた曾祖母が死去したとの知らせが入り、その家屋敷を相続するかどうか決めるため、半ば隆顕から逃げるように視察に出かけることにする。曾祖母が暮らしていた祢山(みやま)村は地図にさえ載っていない、いわゆる限界集落のようなのだが、不思議なことに長い間人口が一定水準から減ることもなく存続しているらしい。だが、出発の前日になって隆顕が「猿がいる」と奇妙なことを言い出す。マンションの部屋に猿などいるはずもないのだが、気にしつつもとにかく岡山へ乗り込む祐美もまたあちこちで黒い影のようなものに脅かされ始める。
こんな風に粗筋をまとめるといかにも今風の陰惨で鬱々とした心理的ホラーや「因習村」ホラーのように思えるのだが、途中で落ち合った弁護士から祢山村に関する説明を受け、そこが因習村などでは全くなく、風変わりではあるが独自のシステムを持つ共同体であることが判明する。この辺りから本作は、因習村などの実話風怪談、心霊スポット、不動産のいわゆる事故物件、「髪が伸びる人形」のような呪物といった世間ではやるホラーの定番を次々に批判的視点から論ずるメタホラー論としての性格を強めてゆく。それらの定番はいかにも恐怖に根拠があるように語っているが、恐怖には本当は根拠など必要ないのではないか。「何かが襲ってくるとか、変なものが出るとか、そんなことでもないんだ。ただ―怖いんですよ」「幽霊が怖いのではないのだ。/怖いから、幽霊を見るのだ。」という作中の言葉がそれを示している。
そして極めて唐突に、ほとんど肩透かしのような結末で本作は終わる。無論数々の怪異をモチーフにしたシリーズを手掛けてきた作者はその気になればきっちり伏線を回収することもできたはずだが、あえてそれを放棄している。雑誌「ダ・ヴィンチ」2026年2月号に掲載されたインタビューで作者はこう語っている。
「人はこれという理由もなく怖くなるものなんです。今の時代、その恐怖の理由とされる記号があり過ぎですよね。心霊だとか祟りだとかUFOだとか、ヒトコワだとか。自然災害から陰謀まで、選びたい放題ですよ。でもそれ、本当に怖いものなんでしょうか。怖いというのなら、なぜ怖いんでしょう。あまり深く考えずにただ記号に反応しているだけじゃないのかと。しかも、無条件・無批判に、です」
「『猿』は、怖がらせる記号やラベルを一枚ずつはがしていったら何が残るのだろうという小説でしょうか」
「起承転結はなくて、起がずっと続いていきなり結、というか。目次もないし章立てもしていないし、構造的には長めの短編ですね。矛盾した言いかたですけど。発想の段階では伏線も回収され、なおかつ怪しいことも起きる、クライマックスに相当するような部分があったんですけど、きれいさっぱりカットしました。答えを出すのはきっと面白くない(笑)」
定番のホラーを求める人には物足らないかも知れないが、ホラーというジャンルそのものの考察として興味深い試みであると言えよう。
次に『リミナルスペース』はフランスのユーチューブチャンネル運営者であるALT236による多くの写真入りの評論で、副題の通り近年特にインターネットを中心として流行しているホラーの潮流、「リミナルスペース」について考察したものである。
「リミナル(liminal)」という言葉は、ラテン語で閾(しきい)を意味する limen に由来し、元々は二つの状態の中間の時を意味する言葉として使われていた。このどっちつかずの揺れ動く宙吊りの時間では、自分が何者なのか、どこにいるのかが、はっきりとわからなくなる。そこから「リミナルスペース」の概念が拡張され、二つの場所を単につなぐための空間を意味するようになった。(p15)
心理学で意識には上らないが感知される効果を「サブリミナル効果」と呼ぶが、サブリミナルとは「意識の閾の下(サブ)の」を意味する。このように不安定な状態を象徴する場所がリミナルスペースで、「地下鉄の通路、駅のコンコース、空港のターミナル、エレベーター、食堂、病院の廊下など、現代の世界を満たしている場所の大部分が、通過するときにだけ存在し、意味を持つ。…普段は人びとが行き来してにぎわっている場所から人の存在を取り除いたとたんに、その場所は別のものになる。実用性を事実上すっかり失ってしまい、別の様相へと変異する。不確かで奇妙な様相が、恐怖への新たな扉を開くのだ。」(p16)
こう述べられている通り、リミナルスペースとは地下鉄通路、巨大なショッピングセンター、病院や学校の廊下といった巨大でがらんとした空間が迷宮のようにどこまでも広がっているような光景が典型的で、インターネットでは特に写真の形であちこちの投稿サイトやSNSに掲載されている。具体例は上記の特設サイトを見れば一目瞭然だ。最近のホラー映画『8番出口』や Backrooms のどこにも出口のない地下鉄通路やがらんとした部屋もその一種だ。ただ映画では怪異が起きるがそれはむしろ例外的で、リミナルスペースの大半はとにかく広く、空虚で、人間(どころか動物さえ)が全く写っていない。しかもいわゆる幽霊屋敷のような廃墟や古めかしい建物ではなく、こぎれいな現代建築で照明もちゃんと点灯しているし、汚れや崩壊した箇所もない。ただ誰もおらず、がらんとしているだけである。どこがホラーなのか一見しただけでは理解できないだろうが、著者は次のように述べる。
近年新しい美学が生まれ、そこにいる主役となるべく存在を巧みに排して、例外的に舞台の場所自体に恐怖の主役を演じさせるようになった。本書で扱われるホラーは、これまでのホラーとは正反対で、過剰な演出よりも空虚さを好み、露骨な演技よりも示唆を選び、他の何よりも謎を促す。「リミナルスペース」は、昨日今日始まったものではなく、徐々にきわめて革新的で現代的な新大陸になっていった。美学的な物語の分野を切り拓き、今では当初の定義を超えて、意図的に不安を誘うビジョンという、より大きな分野へと開かれている。(序文)
リミナルスペースの画像には人が写っていないので、その場所は何かのための背景というよりも、それ自体が物語になるのだ。登場人物がいないので、それを見ている人が主人公になって、知らず知らずのうちに画像に入り込み、その場所を実際に歩いているかのようにして、その場所が自分の中に呼び起こすものと向き合うことになる。(p61)
このような作品が独創的なのは、家を朽ちて埃まみれの廃墟に変えることなく、恐怖を与えるからだ。その大部分の家は清潔で、一見すると安心感すら与えるほどで、恐ろしいほど普通である。邪悪なものは、物理的な形で直接現れるわけではなく、完璧に見える空間にたちこめる。恐怖は、死角に、際限なく続くような空間に、そこにうずくまる未知なるもののなかに……画面の外に、潜んでいる。(p132)
リミナルスペースは屋内であることが多いが、本書の表紙に使われているホラー映画『ビバリウム』に登場する、どこまでも同じ家が無限に並びしかも人っ子一人いない屋外空間のこともある。映画『トゥルーマン・ショー』のように、この世界自体が一つのセットであり書き割りに過ぎないのではないか、永遠にそこから出られないのではないか、という不安感、閉塞感を醸し出す。
ある意味においてリミナルスペースは、深い実存的絶望の一形態なのではないか。私たちが生きているこの時代、衰退しつつある資本主義の幻想の皺寄せを具体的に実感するようになっている。…地球温暖化、環境汚染、過度な都市化などの要因が、おそらくは空虚と欠如の美学が成功した理由を説明している。工業生産の夢が生んだものは、無限に繰り返される意味のない空っぽの建物だけだ。…フィクションにおけるパラレルワールドは、…この世界では、ただ陰鬱で不安を誘う無限の空間なのである。(p151)
リミナルスペースが注目され始めたのはインターネットが普及してからのことだが、そのコンセプトはかなり古くから存在しており、筆者はマグリットの絵画、映画『シャイニング』、ドラマ『ツインピークス』、奇書として知られるダニエレブスキー『紙葉の家』、日本漫画『BLAME!』といった数多くの作品を引用しつつその歴史を辿ってゆく。
奇しくも1990年代 Jホラーブームのきっかけとなり、20世紀のお岩やお菊とも言うべきホラーアイコン「貞子」を生んだ『リング』の作者鈴木光司が先日亡くなり、ホラーの世界も代替わりが進んでいる。これからどのような形を取るにせよ、ラヴクラフトの言う「最も根源的な感情」たる恐怖は人類がいる限り存在し続けるのは間違いない。ちなみに同じ版元のウェブマガジンでは気鋭の評論家佐々木敦による非常に面白い論考が掲載されているので、改めて『リング』の意義を見直すのも追悼になるかも知れない。


